大原麗子の学歴|潤徳女子中学校・北豊島高等学校卒業で大学進学なし

大原麗子の学歴|潤徳女子中学校・北豊島高等学校卒業で大学進学なし

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大原麗子さんの学歴について調べてみると、芸能界デビューのきっかけとなった10代の経歴が浮かび上がってきます。

昭和を代表する大女優として知られ、NHK大河ドラマ「春日局」で平均視聴率32.4%という歴代3位の記録を打ち立てた大原麗子さん。

その輝かしいキャリアの出発点は、北豊島高等学校(現・北豊島高等学校)を卒業した後、六本木野獣会のメンバーとしてスカウトされ芸能界へ飛び込んだことでした。

この記事では、大原麗子さんの学歴・出身校と、その後の女優人生における波瀾万丈な歩みを詳しく掘り下げます。

記事のポイント

①:大原麗子さんの学歴は潤徳女子中学校・北豊島高等学校卒業で大学進学なし

②:高校卒業後、加賀まりこらを輩出した「六本木野獣会」のメンバーとして頭角を現す

③:1964年NHK新人オーディション合格でデビュー、翌年東映に入社

④:サントリーCM「すこし愛して、ながーく愛して」は1980年代の流行語となった

大原麗子の学歴と出身校|北豊島高校の素顔

  • 大原麗子の学歴一覧|潤徳女子中と北豊島高校
  • 文京区の和菓子屋に生まれた大原麗子の幼少期
  • 潤徳女子中学校の特徴と偏差値
  • 北豊島高等学校の特徴|同期の有名人
  • 六本木野獣会への参加とNHKオーディション合格

大原麗子の学歴一覧|潤徳女子中と北豊島高校

 
 
 
 
 
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まず、大原麗子さんの学歴を一覧で整理します。

学校名 所在地 偏差値 備考
潤徳女子中学校 東京都足立区 28程度 中学卒業
北豊島高等学校 東京都北区 35程度 昭和39年(1964年)卒業
大学 進学せず芸能活動へ

大原麗子さんは高校卒業後、大学へは進学していません。

高校を卒業した1964年、同年にNHKの新人オーディションに合格してデビューしているため、高校在学中から芸能活動の準備を進めていたと考えられます。

大原麗子の学歴年表

年齢 出来事
1946年11月13日 0歳 東京都文京区(小石川区丸山町)に誕生。父は老舗和菓子屋経営者
幼少期 両親が離婚し母親と暮らす
1960年頃 13〜14歳 潤徳女子中学校に入学・在籍
1963年頃 16〜17歳 北豊島高等学校に入学
1964年 17〜18歳 北豊島高等学校を卒業。同年NHK新人オーディション合格
1964年 18歳 ドラマ「幸福試験」で女優デビュー
1965年 18〜19歳 東映に入社、映画デビュー

大原麗子のプロフィール

項目 内容
本名 飯塚麗子
生年月日 1946年11月13日
没年月日 2009年8月3日(享年62歳)
出身地 東京都文京区小石川
身長 157cm
学歴 北豊島高等学校卒業(1964年)
デビュー 1964年(ドラマ「幸福試験」)

大学進学なし・高校卒業直後のデビューが意味すること

大原麗子さんが高校卒業直後の1964年に女優デビューを果たしたことは、当時の芸能界における「高校卒業=芸能活動本格化」というパターンを踏んでいます。

1960年代の日本では、大学進学率はまだ低く、高卒後に就職・結婚・芸能活動という選択肢が社会的に広く認められていました。

大原麗子さんは学歴ではなく、その圧倒的な美貌と演技センスを武器に芸能界の頂点へと上り詰めました。北豊島高等学校という中堅校出身でも、テレビ好感度タレント1位を14回獲得するというキャリアを積み重ねたことは、学歴と才能の関係を考えさせられる一例です。

また、潤徳女子中学校・北豊島高等学校という学校での教育を通じて育まれた礼儀や品格は、女優としての立居振る舞いの基礎となったと考えられます。大原麗子さんが「清楚でしっとりとした風情の日本的美人」と評されたのは、生まれ育った文京区の文化的環境と学校教育が育てた教養の賜物でもあったでしょう。

文京区の和菓子屋に生まれた大原麗子の幼少期

大原麗子さんは1946年11月13日、東京都文京区の小石川区丸山町(現・文京区)で生まれました。

老舗和菓子屋の長女として誕生

大原麗子さんの父親は、老舗和菓子屋の経営者でした。

東京・小石川(現・文京区)という歴史ある街に根ざした商家の長女として、大原麗子さんは裕福な環境に生まれています。

しかし、幼い頃に両親が離婚し、母親と暮らし始めます。

父親の和菓子屋という安定した家庭背景はありながら、母子家庭という環境のなかで育ったことが、後の大原麗子さんの強さと繊細さを形成したといわれています。

幼少期の環境と東京での生育

文京区は東京大学や多くの学校が集まる文教地区として知られるエリアです。

このような知的な雰囲気の街で幼少期を過ごした大原麗子さんは、豊かな感受性と品のある女性像を自然と身に着けていったと考えられます。

後に「清楚でしっとりとした風情の日本的美人」と評された大原麗子さんの品格は、文京区という土地柄と、和菓子屋という日本的な美意識を持つ家庭環境から育まれたものかもしれません。

10代での芸能界との接点

大原麗子さんが芸能界と接点を持ったのは、10代後半のことでした。

加賀まりこ、峰岸徹(現・峰岸徹)らを輩出した「六本木野獣会」というグループのメンバーとして頭角を現し、芸能関係者の目に留まります。

離婚家庭という環境が生んだ強さと繊細さ

幼い頃に両親が離婚し母親と暮らしてきた大原麗子さんにとって、家庭の温もりと孤独の間を行き来する感情は、女優としての豊かな感情表現の源泉になったと考えられます。

「清楚でしっとりとした日本的美人」という評価の奥に潜む、ハスキーボイスと小悪魔的なキュートさというギャップは、幼少期から培われた複雑な内面性が生み出したものかもしれません。

文京区小石川という土地には、文京区立の小中学校が多く点在しており、子供の教育環境として恵まれた場所でした。和菓子屋という日本文化の薫りある家庭で育ち、文京区という文教地区で幼少期を送った大原麗子さんの素地は、後の女優・大原麗子を形成する重要な要素だったといえます。

大原麗子さんが後に「男はつらいよ」シリーズのマドンナとして「日本的美人」を体現できたのも、文京区の和菓子屋という文化的な家庭環境と離れられない縁があると感じられます。

潤徳女子中学校の特徴と偏差値

大原麗子さんが通った潤徳女子中学校について詳しく見ていきます。

潤徳女子中学校の概要

項目 内容
学校名 潤徳女子中学校
所在地 東京都足立区千住旭町
形態 私立・女子校
偏差値 28程度(現在)
特記 中高一貫ではなく別学の学校

足立区に位置するアクセスしやすい女子校

潤徳女子中学校は、東京都足立区に位置する私立女子校です。

1960年代当時も現在も、受験難易度としては難関校ではなく、広く門戸を開いた女子教育の場として地域に根ざしています。

大原麗子さんが通っていた頃は、文京区から足立区の学校へ通うという生活をしていたことになります。

この時期の大原麗子さんについて詳細なエピソードは公表されていませんが、中学時代から美しさと才気が際立っていたと伝えられています。

中学時代の大原麗子と芸能への目覚め

大原麗子さんが潤徳女子中学校に通っていた1960年代初頭は、まだ本格的な芸能活動を始める前の時期です。

しかし、この頃から独特の存在感と美貌は際立っており、周囲の注目を集めていたといわれています。

幼い頃から芸能の世界への憧れを持っていた大原麗子さんにとって、中学時代はその夢に向けて着実に準備を進める時期だったと考えられます。

足立区から文京区へ通学した中学時代の生活

大原麗子さんは文京区の出身ながら、潤徳女子中学校は東京都足立区千住旭町に位置しています。

文京区から足立区への通学は当時の公共交通機関を使えば1時間程度かかることも珍しくなく、中学生の大原麗子さんは毎日の長距離通学を経験していたと考えられます。

中学時代の詳細なエピソードについては公表されていませんが、この時期に育まれた自立心と忍耐力が、後の女優としての下積み時代を支えた精神的な基盤になったと考えられます。

潤徳女子中学校での3年間は、大原麗子さんが芸能界への憧れを内に秘めながら、一般の女学生として過ごした最後の時期でもありました。中学卒業後、北豊島高等学校へ進学した大原麗子さんは、高校在学中から六本木野獣会のメンバーとして芸能界との接点を深めていきます。

この中学時代という「助走期間」があったからこそ、高校卒業と同時にNHKオーディションを受けるという明確な行動に出られたのでしょう。

北豊島高等学校の特徴|同期の有名人

潤徳女子中学校を卒業した大原麗子さんは、北豊島高等学校へ進学します。

北豊島高等学校の概要

項目 内容
学校名 北豊島高等学校
所在地 東京都北区
形態 私立
偏差値 35程度
大原麗子の卒業年 昭和39年(1964年)

大原麗子が高校卒業と同時にデビューできた理由

大原麗子さんは、高校在学中から六本木野獣会のメンバーとして芸能界の関係者との接点を持っていました。

このため高校を卒業した1964年(昭和39年)に、すぐさまNHKの新人オーディションに合格するという迅速なデビューを実現できたと考えられます。

高校卒業と芸能界デビューが同じ年という事実は、大原麗子さんがいかに早い段階から芸能界への道を意識し、準備していたかを示しています。

高校時代の大原麗子と六本木野獣会

「六本木野獣会」は1960年代に活動した芸能界の若手グループで、加賀まりこさん、峰岸徹さん、そして大原麗子さんらが参加していました。

歌手の田辺靖雄さんを中心に形成されたこのグループは、当時の芸能プロダクション関係者の注目の的となっており、大原麗子さんはそこで大野直(東京放映社長・大野伴睦の長男)にスカウトされます。

六本木野獣会への参加は、大原麗子さんにとってただの芸能グループへの参加以上の意味を持ちました。

そこで磨かれた独特の存在感と美しさが、NHK新人オーディション合格という結果に直結しています。

高校と芸能活動の二重生活

大原麗子さんは北豊島高等学校在学中から、六本木野獣会のメンバーとして芸能関係者と交流を持っていました。

高校生でありながら芸能界の最前線にいる若者たちとの交流は、大原麗子さんに芸能の世界への現実的な視野をもたらしたと考えられます。

北豊島高等学校は東京都北区に位置する私立校で、芸能活動との両立を柔軟に認める校風があったとも伝えられています。

1964年の高校卒業と同年にNHKオーディションに合格してデビューするという迅速さは、高校在学中からしっかりと芸能界への準備を進めていた結果です。

学歴という観点では決して高くはない大原麗子さんの出身校ですが、そこで培われた精神力と、六本木野獣会での人脈が組み合わさって、昭和を代表する女優への道が開かれたのです。

六本木野獣会への参加とNHKオーディション合格

大原麗子さんの芸能界入りの経緯は、当時の芸能界の流行とも深く結びついています。

六本木野獣会とは何か

「六本木野獣会」は1960年代初頭に活動した、若い俳優・モデル・タレントたちの非公式なグループです。

六本木という当時のおしゃれな街を拠点に、若い才能が集まって交流するサロン的な集まりでした。

加賀まりこさんや峰岸徹(現・峰岸徹)さんなど、のちに日本映画界を代表する俳優を輩出したことでも知られています。

大原麗子さんも10代後半でこのグループに参加し、芸能界関係者との人脈を広げていきました。

NHK新人オーディション合格と「幸福試験」デビュー

1964年、大原麗子さんはNHKの新人オーディションに合格します。

これは当時の芸能界への登竜門として知られる試験で、高い競争率を勝ち抜いての合格でした。

そのままNHKドラマ「幸福試験」に出演し、18歳で女優としての第一歩を踏み出します。

北豊島高校卒業の年と女優デビューが重なる1964年は、大原麗子さんにとって人生の転換点となった年でした。

東映入社とスクリーンデビュー(1965年)

デビュー翌年の1965年、大原麗子さんは東映に入社して映画デビューを果たします。

佐久間良子主演の「孤独の賭け」で初めて本格的な映画に出演し、城野ゆきさんとともに「東映東京の一押し新人女優」として売り出されました。

高倉健主演の「網走番外地」シリーズ、梅宮辰夫・緑魔子コンビの「夜の青春シリーズ」など、多くの作品に出演して確実に存在感を高めていきます。

1965年の東映入社後、大原麗子さんは東映が推進していた「不良性感度映画」の路線のなかで酒場のホステスやパンスケ役などを多く演じました。しかし、こうした役を通じて磨かれた表現力が、後の「魔性の女」から「清楚な女性」まで幅広い役柄をこなせる演技力の土台となりました。

大原麗子の学歴が映す女優人生と波瀾万丈の半生

  • 大原麗子の代表作と受賞歴一覧
  • 渡瀬恒彦・森進一との2度の結婚と離婚
  • 難病発症と芸能界からの退場
  • 大原麗子の孤独死と晩年の生活

大原麗子の代表作と受賞歴一覧

 
 
 
 
 
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大原麗子さんは学歴にかかわらず、その演技力で昭和の映画・テレビ界をリードし続けました。

映画・テレビでの主な代表作

ジャンル 作品名 特記事項
映画 網走番外地シリーズ 高倉健主演、シリーズのヒロイン
映画 男はつらいよ(2作品) 渥美清主演、マドンナ役2回担当
映画 新・喜びも悲しみも幾歳月 山路ふみ子賞(女優賞)受賞(1986年)
テレビ 雑居時代(石立鉄男主演) ヒロイン役
テレビ 春日局(NHK大河) 平均視聴率32.4%・歴代3位の記録
CM サントリーウイスキーレッド 「すこし愛して、ながーく愛して」が流行語に

好感度タレント女性部門1位を14回獲得

大原麗子さんはテレビ局の好感度タレントアンケート女性部門で1位を14回も獲得した、まさに日本中に愛された女優でした。

「清楚でしっとりとした風情の日本的美人」「ハスキーボイスと独特の色気」という評価は、北豊島高校卒業という学歴ではなく、その人物が持つ天性の魅力から生まれたものです。

「BISTRO SMAP」記念すべき第1回ゲスト

バラエティへの出演は少なかった大原麗子さんですが、「SMAP×SMAP」の名物コーナー「BISTRO SMAP」の記念すべき第1回ゲストを務めたことでも知られています。

SMAPから大女優として特別な扱いを受けたことは、大原麗子さんのスター性を示すエピソードとしてファンの間で語り継がれています。

映画「男はつらいよ」マドンナとしての輝き

大原麗子さんは渥美清主演「男はつらいよ」シリーズに2度マドンナとして登場しています。「噂の寅次郎」「寅次郎真実一路」の2作品で、寅さんが恋心を抱く理想の女性を体現しました。

「男はつらいよ」のマドンナに選ばれることは、当時の日本映画界において「最も美しい女優」と認められることを意味していました。2度にわたってマドンナを務めたことは、大原麗子さんの美しさと女優としての格が他の追随を許さないものだったことを示しています。

1986年には映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」で山路ふみ子賞(女優賞)を受賞し、演技力でも最高峰の評価を受けています。北豊島高等学校卒業という学歴に関係なく、実力と存在感だけで昭和映画界のトップに立ち続けた大原麗子さんの軌跡は、学歴を超えた才能の証明といえるでしょう。

渡瀬恒彦・森進一との2度の結婚と離婚

大原麗子さんのプライベートは、仕事と同様に波乱に満ちたものでした。

渡瀬恒彦との最初の結婚(1973〜1978年)

1973年、大原麗子さんは俳優の渡瀬恒彦さんと結婚します。

東映時代から交流のあったふたりは、1972年2月14日に東京プリンスホテルで婚約発表を行いました。

岡田茂東映社長が「二人とも我が社の看板スターです。今後ともよろしく」と述べるほど、東映を代表するゴールデンカップルとして注目されました。

しかし1978年、結婚から5年で離婚。

その後、渡瀬恒彦さんは主演ドラマ「十津川警部シリーズ」に2004年大原麗子さんをゲストとして出演させており、元夫婦の間に生涯にわたる友情が続いていたことが伝わってきます。

森進一との再婚と「家に男が二人いた」発言(1980〜1984年頃)

1980年、大原麗子さんは歌手の森進一さんと再婚します。

歌手と女優という組み合わせは話題を呼びましたが、4年後に破局。

離婚会見での「仕事を辞めたくなかった。家庭に男が二人いた」という発言は、昭和の芸能界に衝撃を与えました。

結婚相手 結婚年 離婚年 備考
渡瀬恒彦 1973年 1978年 俳優・東映の看板スター
森進一 1980年 1984年頃 歌手・「家に男が二人いた」発言

2度の離婚が女優・大原麗子に与えたもの

渡瀬恒彦さんとの離婚(1978年)、森進一さんとの離婚(1984年頃)という2度の結婚と離婚は、大原麗子さんの女優としてのキャリアにどのような影響を与えたのでしょうか。

実は、離婚後の大原麗子さんは仕事への集中度が増し、1989年のNHK大河ドラマ「春日局」での主演・平均視聴率32.4%という記録的な成功を収めています。

「仕事を辞めたくなかった。家庭に男が二人いた」という森進一との離婚会見での発言は、大原麗子さんが「女優」という仕事を何よりも大切にしていたことを示しています。潤徳女子中学校・北豊島高等学校という学歴を持つ大原麗子さんが学歴でなく「仕事への情熱」で昭和の芸能界を生き抜いた姿勢は、現代の女性にも大きなメッセージを残しています。

難病発症と芸能界からの退場

2度の離婚を経た後も、大原麗子さんは女優として精力的に活動を続けていました。

しかし、度重なる病が彼女の女優人生に影を落とし始めます。

ギラン・バレー症候群の発症

大原麗子さんは20代後半で、免疫システムの不具合から歩行障害などを引き起こす難病「ギラン・バレー症候群」を発症します。

この病は神経が攻撃される自己免疫疾患で、発症すると四肢の麻痺や歩行困難を引き起こします。

芸能活動を休止せざるを得なくなった大原麗子さんは、その後懸命なリハビリで女優業に復帰します。

しかし1993年には乳がんの手術、1999年には整形手術の失敗という追い打ちがかかり、徐々に第一線から遠ざかっていきます。

現場復帰を夢見て闘病し続けた

晩年の大原麗子さんは「仕事に関しては、死ぬまで限界がない」「必ず復帰する」と語り続け、自宅でのリハビリと筋力トレーニングを欠かしませんでした。

2008年末には「たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語り、完全復帰を目指す強い意志を持ち続けていました。

ギラン・バレー症候群再発と最後のリハビリ生活

2008年10月、ギラン・バレー症候群が再発。

同年11月には自宅で転倒して右手首を骨折するという重傷を負い、リハビリ生活に入ります。

亡くなる年の2009年4月には「私ももう60歳になっちゃったしね」と明るく電話で話していたと伝えられています。

難病と向き合いながらも女優魂を燃やし続けた

ギラン・バレー症候群というのは、自分の免疫が自分の神経を攻撃してしまう難病です。発症すると四肢の麻痺・歩行困難・呼吸困難などの症状が現れ、重症化すると人工呼吸器が必要になることもあります。

大原麗子さんはこの難病を20代後半で発症しながら、懸命なリハビリで女優業に復帰しています。しかし1999年には整形手術の失敗、そして2008年10月には同じギラン・バレー症候群が再発するという、重なる不幸に見舞われました。

それでも「仕事に関しては死ぬまで限界がない」「必ず復帰する」と言い続けた大原麗子さんの女優魂は、北豊島高等学校という学歴や出身家庭の境遇を超えた、純粋な芸への情熱から生まれたものでした。

中高一貫の難関校ではなく、潤徳女子中学校・北豊島高等学校という学歴を持ちながら、昭和の芸能界の頂点に立ち続けた大原麗子さん。その軌跡は「学歴より才能と情熱」という事実を力強く証明しています。

大原麗子の孤独死と晩年の生活

2009年8月3日、大原麗子さんは東京・世田谷区内の自宅で62歳の生涯を閉じました。

孤独死の報道と社会への衝撃

大原麗子さんの死亡が発見されたのは8月6日。

連絡が取れないことを心配した実弟と警察によって、自宅で死亡しているのが発見されました。

携帯電話に手を伸ばし、あと3メートルというところだったという報道は、多くの人の胸を打ちました。

当時3億円とも言われた豪邸でひとり暮らしをしていた大女優の孤独死は、社会に大きな衝撃を与えました。

「孤高」を選んだ大原麗子の最期

元マネージャーの佐藤嘉余子さんは、大原麗子さんの衣裳部屋の壁に貼られていたスペイン人詩人の詩「孤独な鳥の、5つの条件」について語っています。

大原麗子さんはこの詩を毎日眺め、「私は死ぬ時にはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と話していたといいます。

「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」というマネージャーの言葉は、大原麗子さんの最期の姿を表しています。

北豊島高校を卒業後、学歴よりも才能と美貌で昭和の芸能界を駆け抜けた大原麗子さんは、最後まで自分の道を「孤高」に歩み続けたのかもしれません。

お別れの会での1000人の参列

2009年8月23日、東京・青山葬儀所で開催された「お別れの会」には関係者約400人、一般参列者約600人の計1000人が集まりました。

元夫の渡瀬恒彦さんと森進一さんも参列し、発起人代表の森光子さんは「お二人を選んだことが間違いではなかったと今日ほんとうに思えました」と語りました。

高倉健さんは参列はしなかったものの、その後墓参に訪れ30分以上語りかけ、定期的に線香を贈り続けたと伝えられています。

孤独な鳥の5つの条件が示す大原麗子の生き方

スペイン人詩人サン・ファン・デ・ラ・クルスの「孤独な鳥の、5つの条件」という詩。大原麗子さんが毎日眺めていたというこの詩は、「高く飛ぶ」「仲間を求めない」「嘴を天空に向ける」「決まった色を持たない」「静かに歌う」という5つの条件から成っています。

潤徳女子中学校・北豊島高等学校という学歴から始まり、六本木野獣会を経てNHKオーディションに合格し、昭和の芸能界を駆け抜けた大原麗子さん。2度の結婚と離婚、難病との闘い、孤独な晩年という波乱万丈の人生は、まさに「孤独な鳥」のように高く飛び、最後は静かに歌いながら去っていった一羽の鳥の物語でした。

大原麗子の学歴と女優人生の総括まとめ

  • 大原麗子さんの学歴は潤徳女子中学校・北豊島高等学校卒業(1964年)
  • 大学への進学はなく、高校卒業の年に即NHK新人オーディション合格でデビュー
  • 1946年11月13日、東京都文京区の老舗和菓子屋の長女として誕生
  • 幼い頃に両親が離婚、母親と二人で暮らす環境のなかで育つ
  • 10代後半で「六本木野獣会」に参加し、加賀まりこら著名人と並んで頭角を現す
  • 1965年東映入社、高倉健主演「網走番外地」シリーズなどに出演
  • テレビ好感度タレント女性部門で1位を14回獲得した昭和を代表する大女優
  • NHK大河ドラマ「春日局」で平均視聴率32.4%という歴代3位の記録を達成
  • サントリーCM「すこし愛して、ながーく愛して」が1980年代の流行語になった
  • 渡瀬恒彦さんと1973年結婚・1978年離婚、森進一さんと1980年再婚・1984年頃離婚
  • 難病「ギラン・バレー症候群」を発症し、復帰を夢見ながら闘病生活を送る
  • 2009年8月3日、東京・世田谷区の自宅で不整脈による脳内出血のため62歳で逝去
  • 孤独死として報道されたが、元マネージャーは「孤高を選んだ最期」と語っている
  • お別れの会には1000人が参列し、高倉健さんも後に墓参を続けた
  • 学歴を超えた天性の美貌と演技力で、昭和映画・テレビ史に輝く大女優として永遠に記憶される