坂東玉三郎の学歴|聖学院高校を中退から大学進学せず人間国宝になった理由

坂東玉三郎の学歴|聖学院高校を中退から大学進学せず人間国宝になった理由

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坂東玉三郎さんの学歴について、気になっている方は多いのではないでしょうか。

歌舞伎界を代表する立女形として人間国宝にも認定されている坂東玉三郎さんですが、実は高校を中退して大学にも進学していないという、意外な経歴の持ち主です。

梨園の出身でもなく、1歳で小児麻痺を患うという苦難のスタートを乗り越え、独自の才能と努力で現在の地位を築いた坂東さん。

この記事では、豊島区立巣鴨小学校・聖学院中学校・聖学院高校などの出身校の偏差値や学生時代のエピソード、そして高校を中退した真相まで詳しくまとめています。

記事のポイント

①:出身高校は聖学院高校(偏差値57)で高2で中退

②:中学2年で5代目坂東玉三郎を襲名した

③:小児麻痺リハビリから始めた日本舞踊が原点

④:大学不進学から人間国宝へ上り詰めた経歴

坂東玉三郎の学歴と出身校一覧

  • 坂東玉三郎のプロフィールと学歴一覧表
  • 出身小学校・豊島区立巣鴨小学校での幼少期
  • 聖学院中学校時代と5代目坂東玉三郎の襲名
  • 聖学院高校入学と中退の真相
  • 大学不進学の決断と19歳での芸術賞受賞
  • 聖学院出身の有名人と校風

坂東玉三郎のプロフィールと学歴一覧表

 
 
 
 
 
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まず、坂東玉三郎さんの基本的なプロフィールと学歴を整理してみましょう。

項目 内容
本名 守田伸一(旧姓:楡原)
生年月日 1950年4月25日
2026年05月02日現在の年齢 76歳
出身地 東京都豊島区大塚
身長 173cm
血液型 B型
職業 歌舞伎役者・演出家・映画監督
屋号 大和屋
受賞歴 人間国宝(2012年認定)

続いて、学歴一覧表です。

学校名 種別 偏差値 備考
豊島区立巣鴨小学校 公立 東京都豊島区
聖学院中学校 私立(男子校) 46(やや容易) 中学受験で入学
聖学院高校 私立(男子校) 57(現在) 高校2年で中退
大学 進学せず

ここ、気になるポイントだと思いますが、坂東さんの学歴は「高校中退・大学なし」という非常にシンプルなものです。

それでいながら「戦後、無名から大立者へと自力でのし上がった役者は坂東玉三郎のみ」とまで評されるほどの存在感を歌舞伎界で確立したわけですから、いかに学歴よりも芸の力が物を言う世界かがわかりますよね。

以下では、各学校の詳細や学生時代のエピソードを順に紹介していきます。

坂東玉三郎さんの人物像

坂東玉三郎さんは、歌舞伎の家に生まれたわけではありません。

実家は東京都豊島区大塚の料亭で、両親はお互い子連れの再婚同士でした。年齢の離れた兄が4人いる5人兄弟の末っ子として育った坂東さんは、梨園とは無縁の一般家庭の出身です。

それでも現在の歌舞伎界において、その名を知らない人はいないほどの大スターになったのは、幼少期からの類まれな才能と、並外れた努力・研究心の賜物といえるでしょう。

名前の変遷と屋号について

坂東さんの本名は守田伸一で、旧姓は楡原(にれはら)です。

歌舞伎役者としての初名は「坂東喜の字(ばんどうきのじ)」で、6歳から守田勘弥さんの部屋子となりこの名を名乗りました。

その後、中学2年の1964年に「5代目坂東玉三郎」を襲名。1975年には法的にも守田勘弥さんの養子となり、姓が「守田」となっています。

屋号は「大和屋」。歌舞伎独自の伝統として、屋号は一門の証とも言える大切なものです。

出身小学校・豊島区立巣鴨小学校での幼少期

坂東玉三郎さんが通った小学校は、東京都豊島区の公立校・豊島区立巣鴨小学校です。

1歳のときに小児麻痺を患い、右足アキレス腱に麻痺が残ったという坂東さんにとって、幼少期はリハビリと向き合う日々でもありました。

小学校の基本情報

豊島区立巣鴨小学校は、東京都豊島区内に位置する公立の小学校です。

坂東さんの実家は大塚の料亭で、学校もその地元エリアにある公立小学校に通っていたことになります。梨園とは無縁の一般家庭の子どもとして、ごく普通の小学校生活をスタートさせたわけです。

幼稚園を1日でやめたエピソード

小学校より前の話ですが、坂東さんは幼稚園をたった1日でやめてしまったというユニークなエピソードがあります。

理由は「男女に分けられるのが嫌だった」から。幼い頃から性別の区別に違和感を持っていた坂東さんらしいエピソードですよね。

近所の子供たちとままごとをするときも、自ら進んでお母さん役を選んでいたといいます。男の子から「女、女」とからかわれても平気だったそうで、後の女形としての天才的な素質がこの頃から垣間見えます。

宇宙飛行士になりたかった

意外なことに、小学校時代の坂東さんの将来の夢は「宇宙飛行士」だったといいます。

体育の授業をよくさぼっていたとも伝えられており、国語と社会が苦手科目だったそうです。学業よりも、すでに日本舞踊と歌舞伎の稽古に情熱を傾けていた坂東さんにとって、学校の勉強に集中するのは難しかったのかもしれません。

芸の原点となった幼少期の習い事

坂東さんは3歳の頃、毎朝父親がかけてくれる邦楽のレコードで目を覚まし、母親の羽織や風呂敷を体に巻いて踊っていたといいます。

4〜5歳の頃からは歌舞伎座にも通い始め、そこで観た六代目中村歌右衛門さんの圧倒的な美しさに心を奪われたとされています。

5歳からは日本舞踊を正式に習い始めました。元々は小児麻痺のリハビリ目的でしたが、これが後の芸道の礎となっていきます。

また、家に出入りする芸者が身に付けている着物や帽子を親にねだるなど、幼い頃から芸の世界に強い憧れを持っていたことがわかります。

聖学院中学校時代と5代目坂東玉三郎の襲名

坂東玉三郎さんが進学した中学校は、東京都北区に位置する私立男子校の聖学院中学校です。

偏差値は46(やや容易)で、中学受験で入学しています。公立中学校ではなく私立校を選んだことから、ある程度の教育環境への意識があったことがうかがえます。

聖学院中学校の基本情報

聖学院中学校は、1903年に創立されたプロテスタント系のミッションスクールです。

キリスト教精神に基づいた人格教育を重視しており、「神を仰ぎ人に仕う」を校訓としています。現在の偏差値は46程度で、進学校というよりは教育方針を重視した選択をする家庭が多い傾向があります。

高校と同じ系列の聖学院中学校に在籍していたため、後に高校へは内部進学することになります。

中学3年間にわたる歌舞伎活動との両立

中学校時代の坂東さんは、3年間にわたって歌舞伎役者としての活動を続けながら学校に通うという、多忙な生活を送っていました。

一般の生徒が部活動に励む中、坂東さんは稽古場と舞台を往来する毎日だったわけです。その両立がいかに大変なものだったか、想像するだけでも伝わってきますよね。

1964年・中学2年での5代目坂東玉三郎襲名

中学2年だった1964年、坂東さんは養父・守田勘弥さんの芸養子となり、「5代目坂東玉三郎」を正式に襲名しました。

この年はまだ14歳。義務教育の途中での大きな節目でした。歌舞伎の世界では名跡の襲名は非常に重大な出来事であり、5代目坂東玉三郎という名跡を継ぐことは、歌舞伎役者として本格的なキャリアの幕開けを意味していました。

この頃から女形として本格的な活動を開始した坂東さんは、中学卒業後も歌舞伎の道をひたすら歩み続けることになります。

変声期が約10年続いた苦労

歌舞伎の女形にとって、声は命です。しかし坂東さんは変声期が約10年続いたといいます。

女形として美声を求められる中、長期にわたる変声期は相当の苦労だったと想像されます。それでもその困難を乗り越えて独自の芸を磨き続けた姿勢は、まさに「努力の人」といえるでしょう。

聖学院高校入学と中退の真相

中学校と同じ系列校である聖学院高校に、坂東さんは内部進学で進みました。

聖学院高校は現在の偏差値が57程度の私立男子校で、1903年創立のミッションスクールとして知られています。

聖学院高校の基本情報と校風

聖学院高校は東京都北区に位置するプロテスタント系の伝統校です。

聖書を用いた人道教育が特徴で、「神を仰ぎ人に仕う」という精神のもと、知識の習得だけでなく人格形成を重視した教育を行っています。

坂東さんが在籍していた当時の偏差値は現在とは異なる可能性がありますが、ミッションスクールとして一定の教育水準を持つ学校でした。

高校時代は帰宅部で歌舞伎一筋

高校に進んだ坂東さんですが、高校時代は仕事が多忙だったため帰宅部で、部活動は一切行っていませんでした。

一般の高校生が友人と放課後を楽しんでいる間、坂東さんはひたすら稽古と舞台の日々。すでに「5代目坂東玉三郎」として女形の注目株となっていた坂東さんには、高校生活をゆっくり楽しむ余裕はなかったようです。

高校2年での中退という決断

そして坂東さんは高校2年生のとき、聖学院高校を中退して歌舞伎の道に専念することを選びます。

当時は女形として各方面から注目を集めており、稽古と舞台への専念が急務だったことが中退の理由とされています。

なお、坂東さんのWikipediaには「聖学院高校を卒業」と記載されている場合がありますが、これは誤情報です。聖学院高校の公式ホームページに掲載された当時の校長のインタビュー内で、「高校2年生の時に聖学院をやめた」と明確に記されており、中退であることは間違いありません。

ここ、実は意外と知られていないポイントなんですよね。公式情報のほうがWikipediaより正確という好例といえます。

中退への葛藤と師匠からの言葉

高校を中退して本格的に歌舞伎へ進む決断は、決して軽いものではなかったはずです。

師匠の守田勘弥さんから「これからは専門家として、今までの甘い生活はできないよ」と告げられた坂東さんは、朝から晩まで稽古漬けの日々に入っていきます。舞踊、三味線、鳴り物、義太夫など、あらゆる芸に真摯に向き合うことになりました。

学校という安定した環境を離れ、芸の世界に身を投じる覚悟は、10代の少年にとって相当の決意だったことでしょう。

大学不進学の決断と19歳での芸術賞受賞

聖学院高校を中退した坂東さんは、その後も高校に入り直すことなく、大学にも進学していません。

これは学業への関心がなかったわけではなく、「歌舞伎役者として生きていく」という強い意志と、その才能をいち早く開花させるための必然的な選択だったといえます。

高校中退直後から始まった快進撃

大学に行かなかった坂東さんのその後の歩みを見ると、改めてその選択の正しさがわかります。

高校中退後は舞台活動に全力を注ぎ、10代後半から次々と大役に抜擢されていきました。その才能は、歌舞伎界にとどまらず、文豪・三島由紀夫の目にも止まることになります。

19歳での三島由紀夫作品への抜擢

19歳だった1969年、坂東さんは三島由紀夫さんの新作歌舞伎「椿説弓張月」に大抜擢され、白縫姫を演じて大きな話題となりました。

三島由紀夫さんや澁澤龍彦さんら当時の文化人たちが坂東さんの才能に注目し、絶賛したことで「玉三郎ブーム」が巻き起こります。

大学の4年間を学業に費やす代わりに、坂東さんは舞台という最前線で実践的な経験を積み上げていったわけです。その選択が19歳という若さでの社会現象につながったことを考えると、学歴とは何かを改めて考えさせられますよね。

19歳での芸術選奨新人賞受賞

同じく19歳のとき、坂東さんは「妹背山」での演技で芸術選奨新人賞を受賞しています。

芸術選奨は文部科学省が毎年選出する、日本の芸術界で最も権威ある賞のひとつ。19歳での受賞は、坂東さんがいかに早熟な才能の持ち主だったかを物語っています。

高校を中退し大学にも行かなかった坂東さんが、10代のうちにこのような栄誉を手にしていたという事実は、学歴以上に芸の力が評価される世界の厳しさと豊かさを教えてくれます。

聖学院出身の有名人と校風

坂東玉三郎さんが通った聖学院という学校には、坂東さんのほかにも多くの著名な卒業生がいます。

坂東さんは高校2年で中退していますが、同じ聖学院出身として知られる人物を紹介します。

小室等(フォーク歌手)

小室等(こむろひとし)さんは、日本のフォーク音楽の草分け的存在として知られる歌手・ミュージシャンです。

1943年生まれで、「六文銭」のメンバーとして活躍し、のちにソロでも幅広い音楽活動を展開しました。フォーク界の重鎮として今も多くのアーティストに影響を与え続けています。坂東さんとは世代が異なりますが、同じ聖学院という学び舎に縁のある人物です。

志尊淳(俳優)

志尊淳(しそん じゅん)さんは、1995年生まれの俳優で、近年テレビドラマや映画で幅広く活躍しています。

爽やかなルックスと確かな演技力で若い世代を中心に高い人気を誇る志尊さんも聖学院高校の出身です。坂東さんとは約45年の世代差があり、同じ校舎を歩いた先輩・後輩という関係になります。

ミッションスクールとしての校風と教育

聖学院はプロテスタント系のミッションスクールとして、1903年に創立された伝統校です。

「神を仰ぎ人に仕う」という精神のもと、単なる学力向上だけでなく、道徳心・奉仕の心・他者への敬意を育む教育を重視しています。聖書を教材に用いた人道教育が今も続いており、学業成績だけでなく人格形成を大切にする校風が特徴です。

坂東さんがこの学校で過ごした時間は短いものでしたが、美しさや人間性を深く追求する芸風は、こうした教育環境とも無縁ではないかもしれません。

坂東玉三郎の学歴が語る芸道と功績

  • 小児麻痺という逆境から生まれた舞踊の天才性
  • 師匠・守田勘弥との絆と芸養子への道
  • 三島由紀夫が見出した才能と玉三郎ブームの到来
  • 歌舞伎を超えた表現者への進化
  • 身長という逆境と女形美への徹底的な追求
  • 人間国宝認定と後進への惜しみない指導

小児麻痺という逆境から生まれた舞踊の天才性

坂東玉三郎さんの芸道の出発点は、病気という逆境でした。

1歳のとき小児麻痺を患い、右足アキレス腱に麻痺が残った坂東さんは、リハビリのために5歳から日本舞踊を習い始めます。この「必要に迫られた始まり」が、後に歌舞伎界最高の女形を生み出すことになろうとは、誰も想像しなかったことでしょう。

1歳での小児麻痺とその後遺症

小児麻痺(ポリオ)は、主に子どもに感染するウイルス性の疾患です。

坂東さんが発症した当時の1950年代は、まだ有効なワクチンが日本に普及していない時代でした。1歳という極めて幼い時期に発症し、右足アキレス腱に後遺症が残ったことで、歩行に困難をきたす時期もあったといいます。右足アキレス腱の手術は15歳と20歳の2回受けています。

リハビリとしての日本舞踊開始

医師の勧めと両親の判断により、5歳から日本舞踊を始めた坂東さん。

当初の目的はあくまでも足の機能回復のためのリハビリでしたが、踊ることへの純粋な喜びと才能が、その目的をはるかに超えた成長をもたらしました。

師事したのは守田勘弥さんの妻で舞踊家の藤間勘紫恵(ふじまかんしえ)さん。坂東さんの才能をいち早く見抜いたのは、この藤間勘紫恵さんであり、後の守田勘弥さんとの縁もここから生まれていきます。

初めて観た歌舞伎との出会い

5歳のとき、坂東さんは初めて歌舞伎の舞台を観ます。

そこで目にしたのは、当時の大女形・六代目中村歌右衛門さんの圧倒的な美しさと華やかさでした。「あんな世界に自分も立ってみたい」という思いが幼心に芽生え、その瞬間から坂東さんの進むべき道が定まったといえます。

病気という出発点が、結果として歌舞伎という芸術との出会いをもたらした——坂東さんの人生には、こうした運命的なつながりが随所にあります。

3歳から始まった芸への目覚め

実は、日本舞踊を正式に始める前から、坂東さんには踊りへの強い傾倒が見られました。

3歳の頃から毎朝父親が邦楽のレコードをかけてくれると、坂東さんは母親の羽織や風呂敷を体に巻いて踊ったといいます。家に出入りする芸者が着ている着物や帽子を親にねだるなど、幼い頃から女形の原型ともいえる感性が育まれていました。

師匠・守田勘弥との絆と芸養子への道

坂東さんの人生において、養父であり師匠でもある14代目守田勘弥さんの存在は絶対的なものでした。

守田勘弥さんとの出会いが、坂東さんを単なる才能ある少年から「5代目坂東玉三郎」という大名跡の継承者へと変えていくことになります。

守田勘弥とはどんな人物か

14代目守田勘弥(1907〜1975)さんは、近代歌舞伎を代表する名優の一人です。

明治座・守田座の経営者としても知られ、歌舞伎の発展に大きく貢献した人物でもあります。坂東さんの才能を見抜き、部屋子として受け入れ、やがて芸養子として大切に育て上げた守田さんの眼力は、歌舞伎界の歴史に大きな足跡を残しました。

6歳での部屋子入りと初舞台

坂東さんが守田勘弥さんの部屋子となったのは6歳の6月6日のこと。

「芸事は6歳の6月6日に始めると上達する」という言い伝えにちなんだ日取りで、初名「坂東喜の字(ばんどうきのじ)」を与えられました。

7歳のとき、渋谷の東横ホールで「寺子屋」の小太郎役として初舞台を踏みます。子役としても大役にあたるこの役を見事に演じ切り、観客から高い評価を受けました。

14歳での5代目坂東玉三郎襲名

中学2年の1964年、守田勘弥さんの芸養子となった坂東さんは、「5代目坂東玉三郎」を正式に襲名します。

この時点で守田さんから「これからは専門家として、今までの甘い生活はできないよ」と告げられた坂東さんは、朝から晩まで稽古漬けの日々が始まります。舞踊・三味線・鳴り物・義太夫など、歌舞伎に必要なあらゆる芸を貪欲に習得していきました。

1975年・養父の逝去と精神的苦悩

1975年、坂東さんは法的にも守田勘弥さんの養子となり、名実ともに大名跡を継ぐ存在となりました。

しかし同年に最愛の師匠であり養父でもある守田勘弥さんが逝去。心の支えを失い、人気役者となった重圧も重なり、精神的なバランスを崩すことになります。

若い頃から過労やプレッシャーによる「鬱」とも戦ってきた坂東さんは、2年半、1日も休まずに舞台に立ち続けた結果、食事も喉を通らず、立っているだけで辛い日々が続いたと振り返っています。そのたびに「踊れなくなるときが来るかもしれない」という危機感から、また新たな舞台へと自分を奮い立たせてきました。

三島由紀夫が見出した才能と玉三郎ブームの到来

高校中退という「異色の学歴」しか持たない坂東さんが、19歳という若さで「社会現象」を起こすことになります。

そのきっかけとなったのが、作家・三島由紀夫さんによる新作歌舞伎への抜擢でした。

19歳での「椿説弓張月」への出演

19歳だった1969年、坂東さんは三島由紀夫さんが書き・演出した新作歌舞伎「椿説弓張月」において白縫姫役に抜擢されます。

三島由紀夫さんは当時日本最高の文豪のひとりであり、その作品への出演はそれだけでも大きな話題となりました。坂東さんの美しさと芸の力は、三島さんをはじめ澁澤龍彦さんら当代一流の文化人・芸術家たちの心を強く動かしました。

玉三郎ブームという社会現象

10代後半から次々と大役に抜擢され、その美しさと芸の力で「玉三郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした坂東さん。

歌舞伎は決して大衆的なエンターテインメントではありませんでしたが、坂東さんの登場によってその状況が変わります。若い世代も含めた幅広い層がチケットを求め、歌舞伎座に押し寄せる現象が起きたのです。梨園出身でもなく、高校中退という経歴を持つ坂東さんが作り出した社会現象は、歌舞伎の歴史においても類を見ないものでした。

海老玉コンビ・孝玉コンビの誕生

玉三郎ブームの中核となったのが、看板コンビの誕生でした。

12代目市川團十郎(当時・市川海老蔵)さんとの「海老玉コンビ」は、歌舞伎十八番「鳴神」での共演で絶大な人気を博しました。男性的な豪快さを持つ海老蔵さんと、繊細で美しい玉三郎さんの対比が観客を魅了したのです。

また、15代目片岡仁左衛門(当時・片岡孝夫)さんとの「孝玉コンビ」も語り草となっています。特に「桜姫東文章」での桜姫役は「一代の当たり役」と評され、今も多くのファンの心に刻まれています。

歌舞伎を超えた表現者への進化

坂東さんの活動は、歌舞伎の枠を大きく超えていきました。

映画・演出・海外公演・異ジャンルとのコラボレーションなど、その芸域は国内外で高く評価される国際的な表現者へと進化しています。

映画俳優・監督としての活躍

1979年の映画「夜叉ヶ池」で俳優デビューした坂東さんは、その後も映画「帝都物語」「夢二」などに出演しています。

1991年には映画「外科室」を自ら監督し、映画監督としての才能も発揮しました。これが初監督作品となり、映像表現においても独自の美学を打ち出しています。

メトロポリタン歌劇場での公演

1984年、坂東さんはニューヨークのメトロポリタン歌劇場100周年記念公演に招かれ、「鷺娘」を踊りました。

世界最高峰のオペラハウスのひとつであるメトロポリタン歌劇場の舞台に立った最初の歌舞伎役者として、国際的な名声を確立します。ニューヨーク・パリ・ロンドンでの海外公演を重ねるうち、坂東さんは日本の伝統芸能を世界に紹介する使者としての役割も担うようになりました。

ヨーヨー・マとのコラボと昆劇への挑戦

1988年、世界的チェリストのヨーヨー・マさんらの演奏によるラヴェルの「ピアノ三重奏曲」で創作舞踊を上演。異ジャンルのアーティストとの融合は大きな反響を呼びました。

また2008年からは日中合同制作の昆劇(中国の古典演劇)「牡丹亭」に主演し、約2年かけて蘇州語の台詞と歌を覚えたといいます。蘇州語の独特な発音は中国人でも難しいとされる中、坂東さんはその壁を乗り越え舞台に立ちました。

NHK大河ドラマ初出演

2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」において、坂東さんは正親町天皇を演じ、初のテレビドラマ出演を果たしました。

歌舞伎役者として数十年にわたって舞台に立ち続けてきた坂東さんのテレビドラマデビューは、多くの視聴者の話題となりました。

身長という逆境と女形美への徹底的な追求

坂東さんには、女形として活動する上でひとつの大きな「弱点」がありました。

それが身長173cmという、歌舞伎女形としては大きすぎるとされる体型です。

高身長という悩みと乗り越え方

歌舞伎の女形は、相手役の立役(男性役)よりも小柄であることが美しさの基本とされていました。

しかし坂東さんの173cmという身長は、女形としては明らかに高すぎました。舞台に立つと他の女形より目立って背が高く、時には観客の失笑を買うこともあったといいます。

しかし坂東さんはここでも独自の工夫と努力で壁を乗り越えます。膝を折り、肩をすぼめ、立ち姿や動きで背を低く見せる方法を徹底的に研究。小柄な立役の相手を務めるために脚を折って腰をかがめながら美しく見える形を追求し続けました。

美人画・浮世絵からの研究

「美人画や浮世絵の女性像を参考に、自分の身体の見せ方を作り上げた」と坂東さんは語っています。

芸術作品の中の「理想の女性像」を徹底的に分析し、それを自分の体に応用するという研究姿勢は、芸術家としての高い知性と探究心の表れです。この探究によって生まれたのが、他の誰にも真似できない坂東玉三郎独自の美しさです。

バレエ習得と徹底した健康管理

坂東さんはバレエにも情熱を持ち、10代半ばから学び始めました。初めてバレエを見た日から開脚の練習を始め、わずか3ヶ月で完全な開脚を習得したといいます。

健康管理への姿勢も徹底したものがあります。毎朝ヒレステーキ150gと抹茶を欠かさず摂取し、20年間は肉を食べずに野菜中心の食生活を送っていた時期もありました。酒は一切飲まず、打ち上げの席でも早々に帰宅してトレーナーに体をほぐしてもらった後はすぐに休むというストイックな生活を続けてきました。

自宅の照明はほぼ蛍光灯を使わず自然な光やランプを好む、衣装の色合わせも職人と直接会って確認するなど、日常生活のすべてが「美の追求」と結びついている坂東さんの生き様は、まさに芸術家そのものです。

人間国宝認定と後進への惜しみない指導

高校中退・大学不進学という「最低限の学歴」しか持たない坂東玉三郎さんは、62歳で日本最高の文化的栄誉のひとつである人間国宝に認定されます。

学歴がすべてではないことを、坂東さんの人生は最も雄弁に物語っています。

2012年の人間国宝認定

2012年、坂東さんは立女形として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

この年、坂東さんは62歳。高校を中退してから約45年が経過した時点での最高栄誉でした。人間国宝の認定は、その芸が日本文化の宝として国家が保護・継承すべきものと認められたことを意味します。

六代目中村歌右衛門の後継として

1996年、昭和の大女形・六代目中村歌右衛門さんが舞台から退くと、坂東さんは名実ともに女形の最高峰として歌舞伎界を牽引する存在となりました。

しかし坂東さんはその地位に安住することなく、自らが受け継いだ名役・大役を積極的に若手へと伝授しています。かつては独占されがちだった「阿古屋」「政岡」「八重垣姫」などの名役も、坂東さんの指導のもとで次世代に受け継がれています。

東京コンセルヴァトリーの設立と教育活動

坂東さんは1990年に若手演劇人養成のための私塾「東京コンセルヴァトリー」を設立しています。

歌舞伎の枠を超えて演劇全般の人材育成に取り組むこの活動は、坂東さんの後進への思いを象徴するものです。黒田勇樹さんが9歳から12歳まで特別聴講生として在籍し、東山紀之さんや川崎麻世さんが演出した舞台に出演するなど、多くの俳優が坂東さんの指導を受けています。

熊本県八千代座の保存活動と各種栄誉

坂東さんは舞台活動だけでなく、熊本県山鹿市にある歴史的な芝居小屋「八千代座」の保存活動にも尽力しました。

廃墟同然だった八千代座に何度も公演で訪れることで観光資源としての価値を高め、保存修復に貢献した功績は、地方文化の継承という観点からも高く評価されています。その活動が認められ、紫綬褒章・文化功労者・日本芸術院会員など、数々の栄誉を手にしています。

坂東玉三郎の学歴と芸道の総まとめ

  • 坂東玉三郎さんの本名は守田伸一(旧姓:楡原)、1950年4月25日生まれ
  • 出身小学校は東京都豊島区の公立校・豊島区立巣鴨小学校
  • 出身中学校は私立男子校の聖学院中学校(偏差値46)で中学受験で入学
  • 出身高校は私立男子校の聖学院高校(偏差値57)に内部進学
  • 高校2年生のときに聖学院高校を中退し、歌舞伎に専念した
  • 大学には進学しておらず、高校中退が最終学歴となっている
  • 1歳で小児麻痺を患い、右足アキレス腱に後遺症が残ったことが芸道の出発点
  • リハビリとして5歳から日本舞踊を始めたことが、後の歌舞伎女形としての礎となった
  • 6歳で守田勘弥さんの部屋子となり、7歳で初舞台を踏んだ
  • 中学2年の1964年に5代目坂東玉三郎を襲名し、女形として本格的に活動を開始
  • 19歳で三島由紀夫作品に抜擢され、玉三郎ブームという社会現象を起こした
  • 同じく19歳で芸術選奨新人賞を受賞するなど、若くして頭角を現した
  • 梨園出身でないにもかかわらず、独自の努力と才能で歌舞伎界の最高峰へ上り詰めた
  • 2012年に62歳で人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された
  • 現在も後進への指導・人材育成に全力を注ぎ、歌舞伎の未来を支え続けている