萩本欽一の学歴|73歳で駒沢大学に入学。出身小学校・中学校・駒込高校まで

萩本欽一の学歴|73歳で駒沢大学に入学。出身小学校・中学校・駒込高校まで

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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萩本欽一さんは「コント55号」で日本のお笑い界に革命を起こし、1980年代には複数の冠番組がすべて視聴率30%超えを記録した「視聴率100%男」として知られるコメディアンです。

出身高校は仏教系私立の駒込高校(偏差値60〜64)で、小学5年生での父親の会社倒産をきっかけに極貧生活を強いられながらも、アルバイトで学費と家計を支えながら高校を卒業しています。

さらに73歳という前例のない年齢で駒沢大学仏教学部に社会人入試で合格し、1日も休まずに通い続けたエピソードは多くの人に感動を与えましたよね。

この記事では萩本欽一さんの学歴と学生時代のエピソード、そして大学進学と中退の真相を詳しくお届けします。

記事のポイント

①:萩本欽一の出身高校は駒込高校偏差値60〜64

②:小学5年時の父の会社倒産で極貧生活を強いられた

③:73歳駒沢大学に社会人入試で合格し入学した

④:大学中退の理由はお笑いへの再集中への決意から

萩本欽一の学歴|小学校から駒込高校の苦学の道のり

  • 萩本欽一の学歴一覧とプロフィール
  • 台東区立西町小学校|裕福から極貧への転落
  • 台東区立御徒町中学校|野球と弟子入り志願
  • 駒込高校|苦学と家族との別れ
  • 駒込高校の同窓生と高校卒業後の芸能界入り

萩本欽一の学歴一覧とプロフィール

 
 
 
 
 
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まず、萩本欽一さんの基本プロフィールと学歴の全体像を確認してみましょう。

萩本欽一の基本プロフィール

項目 内容
本名 萩本欽一(はぎもときんいち)
愛称 欽ちゃん
生年月日 1941年5月7日
2026年04月05日現在の年齢 84歳
出身地 東京都台東区(入谷)
血液型 A型
身長・体重 165cm・65kg
職業 コメディアン・タレント
所属 佐藤企画(業務提携:浅井企画)
最終学歴 駒込高校卒業(駒沢大学中退)

学歴一覧表と各校の偏差値

下記の表は萩本欽一さんの学歴と各校の偏差値をまとめたものです。

学歴 学校名 偏差値 備考
小学校 台東区立西町小学校→浦和市立高砂小学校→台東区立西町小学校 転校を経て元の学校へ戻る(西町小は現在閉校)
中学校 台東区立御徒町中学校 現:御徒町台東中学校
高校 駒込高校(私立) 60〜64 仏教系・当時は男子校・1926年開校
大学 駒沢大学 仏教学部 42 2015年入学・2019年5月中退

学歴の特徴と注目ポイント

萩本欽一さんの学歴で特に注目すべきポイントは3つあります。

1つ目は、極貧生活の中にもかかわらず偏差値60〜64の私立高校に進学した点です。

父親の会社倒産により小学5年生で一気に貧困の底に叩き落とされながら、中学・高校と苦学を続けて高い水準の学校に通い続けた意志の強さは際立っています。

2つ目は、高校卒業後に大学へ進学せず芸能界に飛び込んだ決断力です。

当時すでに大宮敏充さんへの弟子入りを志願するほど芸能への情熱があり、高校卒業後は迷わず浅草の劇場に入団しています。

3つ目は、73歳という年齢での駒沢大学入学という前代未聞の経歴です。

「視聴率100%男」として芸能界の頂点を極めた人物が、73歳で大学の教室に座り孫世代と一緒に勉強する姿は、当時大きな話題を呼びました。

この3つの特徴が重なり合って、萩本欽一さんの学歴はその人生そのものを映し出しているように感じますよね。

台東区立西町小学校|裕福から極貧への転落

萩本欽一さんの幼少期は、裕福と極貧の両方を小学生のうちに経験するという、波乱万丈な始まりでした。

カメラ会社社長の子として生まれた裕福な時代

萩本欽一さんは1941年5月7日、東京都台東区入谷に生まれています。

父親がカメラの製造販売事業を手がけており、その事業が成功したことから一家は埼玉県浦和市(現在のさいたま市)に大きな洋館風の屋敷を構えるほどの裕福な生活を送っていました。

その豊かさは相当なもので、家には2人のお手伝いさんがいたほどです。

浦和市立高砂小学校に転校した萩本さんは、成績優秀だったことから小学生時代を通じて毎年のように級長を務めています。

家族構成は両親と兄2人、姉2人、そして弟という6人きょうだいで、賑やかな大家族の中で育ちました。

父の会社倒産と台東区の長屋への帰還

しかし、この恵まれた生活は長くは続きませんでした。

小学5年生の時に父親の会社が倒産し、一家は浦和の洋館を手放して再び台東区の長屋へと戻ることになります。

その長屋は6畳と4畳半という狭さで、家族が身を寄せ合って暮らすという状況でした。

つい最近まで2人のお手伝いさんがいた裕福な邸宅で暮らしていた子どもにとって、この落差がどれほど衝撃的だったかは想像に難くありません。

小学校も浦和市立高砂小学校から再び台東区立西町小学校へと転校し、もとの環境に戻っています。

貧困の中でも学業を続けた意志の強さ

倒産後の家庭は経済的に非常に厳しい状況が続きましたが、萩本さんはその後も学業を続け、中学・高校へと進んでいます。

この小学生時代の経験が、「芸能界で家を建てる」という夢を早くから持つきっかけになったとも言われており、後の芸能界入りへの強い動機につながっていきます。

裕福だった時代に経験した「豊かさ」と、倒産後の「貧しさ」のギャップが、欽ちゃんのハングリー精神を育てたのかもしれませんね。

なお、台東区立西町小学校は現在閉校しており、当時の面影を直接見ることはできません。

台東区立御徒町中学校|野球と弟子入り志願

中学時代の萩本欽一さんは、野球への情熱と芸能界への夢が交差する時期を過ごしています。

野球部でプロ野球選手を目指した中学時代

台東区立御徒町中学校(現在は御徒町台東中学校)に進学した萩本さんは、中学校で野球部に入部しています。

当時の夢は「プロ野球選手か芸能人になること」で、どちらも「家を建てられる職業」として考えていたと言われています。

野球部では懸命に練習に取り組みましたが、バッティングが苦手だったことからプロ野球選手の夢は早い段階で断念しています。

ただし野球への愛着は生涯続いており、後年には自ら社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成しているほどです。

プロ野球の夢を断念したことで、もう一方の夢である「芸能人」への思いがより強くなっていったのでしょう。

大学進学を断念した理由

中学時代には、萩本さんの人生を大きく左右するもう一つの決断がありました。

母親が借金取りに頭を下げている姿を目にした萩本さんは、この時点で大学への進学を諦める決意をしています。

家庭の経済状況を肌で感じ取り、「大学に行く余裕はない」と悟ったわけです。

この決断は後に母親が深く気にすることになり、それが73歳での大学進学という奇跡的なエピソードにつながっていきます。

中学生という年齢で家族の経済的苦境を理解し、自分の夢を調整していくというのは、なかなかできることではありませんよね。

大宮敏充への弟子入り志願エピソード

大学進学を諦めた萩本さんは、中学校を卒業すると同時に芸能界入りしようと考えていました。

当時、浅草を代表する喜劇役者として活躍していた大宮敏充さんに弟子入りを懇願しに行きましたが、大宮さんの返答は「せめて高校を出てからおいで」というものでした。

この言葉は中学生の萩本さんにとって、高校進学への背中を押す一言となりました。

もし大宮さんが「いいよ、来なさい」と言っていたら、駒込高校への進学も、そして後の数々のエピソードも生まれていなかったかもしれません。

歴史の「もしも」を考えると面白いですよね。

駒込高校|苦学と家族との別れ

大宮敏充さんの一言で高校進学を決めた萩本欽一さんは、私立の駒込高校に進学します。

駒込高校の概要と偏差値

駒込高校は1926年に開校した歴史ある私立高校で、仏教系の学校として知られています。

当時は男子校でしたが、現在は共学化されており、進学率も上昇しています。

現在の偏差値は60〜64と「やや難関」の水準にあり、極貧生活を送りながらもこの高校に通い続けた萩本さんの学力と根性が伝わってきます。

のちに萩本さんが駒沢大学(仏教学部)に進学したことと合わせて考えると、仏教系の教育機関との縁が深い人物でもあります。

新聞配達で家計を支えた高校生活

高校時代の萩本さんは、学費を稼いだり家計を助けたりするために、新聞配達などのアルバイトに明け暮れる生活を送っていました。

毎朝早く起きて新聞を配達し、そのまま学校に向かうという生活は、体力的にも精神的にもかなり過酷なものだったはずです。

野球部にも在籍していましたが、アルバイトが忙しかったことから部活動は満足にできなかったといいます。

それでも映画好きが高じてチャップリンの作品を毎日のように見ており、コメディへの憧れは高校時代を通じて育まれていきました。

「家を建てられる職業」として芸能人になる夢を持ちながら、アルバイトで家族を助け、学業を続けるという生活は、10代の少年には相当な重荷だったでしょう。

一家の夜逃げと「家族解散」という衝撃の言葉

高校時代の萩本さんにはさらに過酷な出来事が待っていました。

中学3年生の時に一家は台東区から文京区へと転居しますが、極貧生活から抜け出せず、萩本さんが高校在学中についに一家で夜逃げすることになります。

そして萩本さんが高校を卒業する頃には、生活苦から「家族を解散した」という言葉を残しているほどです。

家族がバラバラになっても萩本さんは芸能界入りの夢を諦めませんでした。

高校卒業後は東八郎さんに弟子入りし、他の家族の連絡先を一切聞かずに、以降10数年間は家族と音信不通の状態が続きます。

売れっ子になってからの母親との再会

その後、萩本さんは芸能界で成功を収め、晴れて母親と10数年ぶりに再会しています。

ところがその時の母親の反応は、感動の再会とはほど遠いものでした。

「昼間に帰ってくるんじゃありません。近所にバレたらどうするの?」という言葉が返ってきたといいます。

つまり母親は、息子がコメディアンという「恥ずかしい職業」に就いてしまったことを後悔していたわけです。

この母親の思いが、後に萩本さんが73歳で大学に進学した理由の一つになっていきます。

駒込高校の同窓生と高校卒業後の芸能界入り

駒込高校には萩本欽一さん以外にも著名な卒業生がいます。

著名な同窓生たち

下記の表は駒込高校出身の主な著名人をまとめたものです。

人物名 職業 備考
大滝秀治 俳優 2012年没。文化功労者。舞台・映像で大きな足跡を残した名優
唐十郎 作家・劇作家 アングラ演劇の第一人者。紀伊國屋演劇賞など受賞多数
亀井絵里 アイドル・タレント モーニング娘。出身。高校は中退

萩本欽一さんと大滝秀治さんは共に浅草・コメディの世界に縁があり、同じ高校出身というのも面白い偶然ですよね。

大滝秀治さんは文化功労者にも選ばれた名優で、舞台俳優として日本演劇界を牽引した存在でした。

浅草東洋劇場・フランス座での修行時代

高校卒業後、萩本さんはいよいよ夢の芸能界入りを果たします。

1959年、高校卒業と同時に浅草の東洋劇場に入り、コメディアンとしての修業を始めました。

しかし入団早々、演出家から「才能がない」と告げられるという厳しい現実に直面します。

それでも、池信一さんが「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する」と説得し、萩本さんは芸能界に残ることを決意しました。

その後は浅草フランス座へ出向し、そこで後に「コント55号」のパートナーとなる坂上二郎さん(当時の芸名:安藤ロール)と出会っています。

コント55号の結成とブレイク

1963年に浅草新喜劇を結成した萩本さんは、1966年に運命的な形で坂上二郎さんとコンビを組むことになります。

ある日、坂上さんから「麻雀でもしようよ」と電話があり、会ってみると二人ともどん底の状態だったといいます。

「机」のネタを一緒に考えているうちに「だったら二人でやってみようよ」という流れになり、その場の勢いで「コント55号」が結成されたというのは有名なエピソードです。

コンビ名の由来には「ゴーゴーゴー(進め進め)」「当時はやっていた数字」「王選手の本塁打記録にあやかった」など諸説あります。

結成後、コント55号はあっという間に人気に火がつき、1970年代から80年代半ばにかけての全盛期には萩本さんの冠番組が視聴率30%超えを連発しました。

萩本欽一の学歴と73歳での大学進学の真相

  • 73歳での駒沢大学入学|社会人入試合格の経緯
  • 大学生活4年間の実態|1日も休まなかった日々
  • 駒沢大学中退の真相|ファンの手紙と芸への決意
  • 中退後の欽ちゃんの活動と現在の状況

73歳での駒沢大学入学|社会人入試合格の経緯

2015年、萩本欽一さんは73歳という年齢で駒沢大学仏教学部に入学し、日本中を驚かせました。

大学進学を決意した3つの理由

萩本さんが73歳で大学進学を決めた理由は、大きく3つあります。

1つ目は「認知症対策」です。

70代に入ると記憶力が衰えることを実感していた萩本さんは、「覚えたことがどんどん抜け落ちていく。それを防ぐにはどんどん新しい知識を入れていけばいい。そのためには勉強をすればいい」と考えていました。

2つ目は亡き母親の夢を叶えることでした。

中学時代に大学進学を諦めた萩本さんを、母親はずっと気にしていたといいます。

母親の夢だった「息子の大学進学」を、たとえ60年遅れでも実現しようとしたわけです。

3つ目は、2014年3月に舞台を引退したことで「何か新しいことを始めよう」と感じたことでした。

体力の衰えを理由に舞台を退いた萩本さんにとって、大学進学はまさに新たな挑戦の形だったのです。

1年間の猛勉強と社会人入試の内容

入学を決意した萩本さんは、その後約1年間にわたって予備校にも通いながら猛勉強を続けました。

以前にも充電期間中に大手予備校に通ったことがあったといいますが、今回はより本格的な取り組みでした。

受験は社会人特別枠での入試で、英語・小論文・面接という試験形式でした。

これは大学受験の一般試験とは異なり、社会人の知識や経験を評価する形式です。

萩本さんは「認知症対策のつもりで勉強した。本当にうれしい。大学には一日も休まずに行く。野球部にも入りたい」と喜びを表現しており、入学前から前向きな意欲が伝わってきます。

入学当初に直面した苦労

大学に入学した萩本さんは、当初は「特別扱いしてくれると思っていた」と正直に話しています。

しかし実際の授業は容赦なく、仏教学部の専門的な内容についていくのに最初は苦労したといいます。

本人の努力もあって徐々に授業に慣れていき、孫の世代にあたる10代〜20代のクラスメイトたちと共に学ぶ姿はニュースでも大きく取り上げられています。

大学生活4年間の実態|1日も休まなかった日々

73歳で入学した萩本欽一さんは、4年間の大学生活をどのように過ごしたのでしょうか。

1日も休まずに通学したという事実

萩本さんの大学生活で特に注目すべきは、「毎日通っていたのよ。1日も休んでいないんですよ」という本人の言葉です。

4年間、1日も欠席しなかったというのは、73歳から77歳という年齢であることを考えると驚異的な事実です。

体調管理はもちろん、芸能の仕事と学業の両立においても、並々ならぬ覚悟があったことがうかがえます。

実際、「勉強に集中して取り組んでいたが、その合い間にお笑いの仕事が入っていてすごく邪魔だった」とも語っており、学業への真剣な姿勢が見えてきます。

孫世代のクラスメイトとの交流

萩本さんは孫の世代にあたる10代〜20代のクラスメイトたちと楽しく交流を深めていたといいます。

年齢差が50歳以上あっても、学問の場では同じ学生として向き合い、若者たちとの交流を大切にしていたようです。

欽ちゃんのキャラクターならではのコミュニケーション力が、大学生活でも発揮されたのでしょう。

この「73歳の大学生活」は、単なる話題性を超えて、高齢者の学習意欲や生きがいについて多くの人に考えさせるきっかけにもなりました。

大学院進学の報道と学業への姿勢

大学在学中には、大学院への進学を検討しているという報道もありました。

それほど学問に真剣に向き合い、学び続ける意欲を持っていたということです。

仏教学部では仏教の歴史や哲学、思想などを学ぶことになりますが、長年コメディアンとして人間を観察してきた萩本さんにとって、こうした人文学的な学びは新鮮だったのではないでしょうか。

結局は大学院進学には至りませんでしたが、4年間の真剣な学びは確かに萩本さんの中に積み重なっていったはずです。

駒沢大学中退の真相|ファンの手紙と芸への決意

4年間、1日も休まずに通い続けた萩本欽一さんが、なぜ大学を中退したのでしょうか。

ファンの手紙が転機になった瞬間

中退の直接的なきっかけは、一人のファンからの手紙でした。

その手紙にはこう書かれていたといいます。

「欽ちゃん、昔、腹が痛いほど笑ったのを思い出します」

この一文が萩本さんの心に深く刺さりました。

「オレ最近、腹が痛いほどおかしいことやっていないなあ」と気づいた萩本さんは、もう一度お笑いの仕事に全力を注ごうと決意します。

4年間、学業を優先してきた分、お笑いの仕事は「邪魔」と感じるほど二の次になっていたわけです。

そのファンの言葉が、眠っていた「お笑い芸人・欽ちゃん」の魂を呼び覚ましたのです。

「80歳になったら体が動かなくなる」という焦り

退学を決意した理由はもう一つありました。

それは年齢への焦りです。

「あと2年、お笑いに集中したい。80歳になったら体が動かなくなっちゃう」という言葉が、その思いを的確に表しています。

当時の萩本さんは78歳でした。

80歳になる前に、自分が本当にやりたいこと・得意なことに残りのエネルギーを注ぎたいという思いは、とても人間的で共感できますよね。

大学への真剣な取り組みを4年間続けたからこそ、改めて「自分がもっとも輝ける場所」への渇望が生まれたとも言えます。

中退後の反応と「欽ちゃんらしい」という評価

2019年5月に自主退学を発表した萩本さんのもとには、さまざまな反応が届きました。

萩本さん本人が最も嬉しかったのは、「欽ちゃんらしいね」という言葉だったといいます。

萩本さん自身も「そうでしょ?欽ちゃんらしくない?大学中退」と語っており、この中退劇を自分らしさの表れとして肯定的に受け止めています。

73歳で入学して78歳で中退という、前代未聞の大学生活でしたが、最初から最後まで「欽ちゃんらしい」スタイルを貫いたと言えるでしょう。

「辞めたというよりも、一旦辞めてから考えることにした」とも語っており、再び大学に戻る可能性をゼロには考えていなかったようです。

中退後の欽ちゃんの活動と現在の状況

駒沢大学を中退した萩本欽一さんは、宣言通りお笑いの仕事に集中していきます。

お笑い界での活動と弟子への影響

長きにわたってお笑い界のトップに立ち続けた欽ちゃんの存在は、現在も大きなものがあります。

「欽ちゃん」の愛称で日本中に親しまれている萩本さんは、お笑い界の生きた歴史として後進の芸人たちからも尊敬されています。

弟子には東貴博さん(ニッポン放送「ラジオビバリー昼ズ」のパーソナリティ)など多数おり、師匠として後輩の育成にも関わり続けています。

大学中退をラジオで公表した際には、弟子である東貴博さんのパーソナリティ回に出演してその経緯を語るというエピソードも印象的でした。

仮装大賞と主な活動

萩本さんの現在の代表的な仕事として欠かせないのが、日本テレビ「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」です。

2026年1月にも放送されており、長年にわたってこの番組の顔として出演し続けています。

また24時間テレビなどの特番でも継続的に出演しており、多くの視聴者に親しまれています。

1980年代の全盛期ほどのテレビ露出はないものの、ここぞという場面での欽ちゃんの存在感は変わりません。

茨城ゴールデンゴールズと野球愛の継続

萩本さんは芸能活動と並行して、野球への情熱も継続しています。

中学時代にプロ野球選手の夢を断念したことは前述の通りですが、2004年には自ら設立したシニア野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」の活動を展開しています。

このチームは被災地支援や地域活性化の活動でも知られており、野球を通じた社会貢献の場となっています。

中学時代の野球への夢が、半世紀以上の時を経て別の形で花開いたとも言えますね。

萩本欽一の学歴と73歳大学進学の総まとめ

  • 萩本欽一は1941年5月7日生まれ、東京都台東区(入谷)出身のコメディアン・タレント
  • 出身小学校は台東区立西町小学校で、父の事業成功により浦和市立高砂小学校への転校を経験した
  • 小学5年生時に父の会社が倒産し、裕福な生活から台東区の長屋での極貧生活へと転落した
  • 小学生時代は成績優秀で毎年級長を務めるほど学業に秀でた優等生だった
  • 出身中学校は台東区立御徒町中学校(現:御徒町台東中学校)で、野球部に所属しプロ野球選手を目指した
  • 中学時代に大学進学を断念した理由は、母親が借金取りに頭を下げる姿を目にしたことだった
  • 出身高校は駒込高校(偏差値60〜64の私立仏教系高校で、当時は男子校だった
  • 高校時代は新聞配達などのアルバイトで学費と家計を助けながら苦学した
  • 高校在学中に一家で夜逃げし、卒業頃には「家族を解散した」と語るほどの生活苦を経験した
  • 駒込高校の著名な同窓生には大滝秀治(俳優・文化功労者)、唐十郎(作家)、亀井絵里(中退)がいる
  • 高校卒業後は浅草東洋劇場・フランス座で修行し、1966年に坂上二郎と「コント55号」を結成してブレイクした
  • 1970〜80年代に「視聴率100%男」と呼ばれ、複数の冠番組がすべて視聴率30%超えを記録した
  • 2015年に73歳で駒沢大学仏教学部に入学、社会人特別入試(英語・小論文・面接)で合格した
  • 大学中退の理由は、ファンからの「腹が痛いほど笑った」という手紙に触発されてお笑いへ再集中するためだった
  • 「あと2年、お笑いに集中したい。80歳になったら体が動かなくなっちゃう」という言葉を残し2019年5月に自主退学した