三國清三の学歴|北海道出身の中卒が世界を席巻した伝説シェフの軌跡

三國清三の学歴|北海道出身の中卒が世界を席巻した伝説シェフの軌跡

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三國清三さんは日本を代表するフランス料理の巨匠シェフとして、国内外から絶大な評価を受けてきた存在です。

東京・四谷に構えた名店「オテル・ドゥ・ミクニ」は2022年末に37年の歴史に幕を閉じましたが、その名は今もなお日本フランス料理界の頂点として語り継がれています。

三國さんの学歴は、北海道増毛町の中学卒業後に調理師学校へ進んだという異色のルートを歩んでいます。大学どころか高校にも通わず、20歳でスイスの日本大使館付き料理人に抜擢されるなど、修業一筋で世界へ挑んだ生き様は多くの人を驚かせます。

この記事では、三國清三さんの出身校から修業経歴まで、その独自の歩みを詳しく紹介します。

記事のポイント

①:学歴は中卒で調理師学校に進んだ異色キャリア

②:20歳でスイスへ日本大使館付き料理人に抜擢

③:ヨーロッパ8年の修業で三ツ星シェフから技術習得

④:「セ・パ・ラフィネ」が日本流仏料理の哲学を確立

三國清三の学歴|北海道から世界へ

  • 【学歴一覧】三國清三の出身校と修業歴
  • 北海道増毛町での幼少期と学校生活
  • 中学卒業後に選んだ調理師への道
  • 【直談判】札幌グランドホテルへの突撃
  • 帝国ホテルへの移籍と村上シェフの出会い
  • 20歳でスイスへ|大使館料理人に抜擢

【学歴一覧】三國清三の出身校と修業歴

ここでは三國清三さんのプロフィールと、出身校から修業経歴までを一覧で確認してみましょう。

三國清三のプロフィール

項目 内容
本名 三國清三(みくに きよみ)
生年月日 1954年12月14日
2026年04月06日現在の年齢 71歳
出身地 北海道増毛郡増毛町
職業 フランス料理シェフ・オーナーシェフ
代表店 オテル・ドゥ・ミクニ(1985〜2022年)
主な師匠 村上信夫(帝国ホテル)・フレディ・ジラルデ・アラン・シャペル

学歴・修業経歴一覧

以下の表で三國清三さんの学歴と修業経歴を整理してみます。

時期 学校・修業先 偏差値・備考
〜1967年頃 増毛町立増毛小学校(推定) 北海道増毛町で育つ
〜1970年頃 増毛町立増毛中学校 中学卒業で社会へ進出
1970年代初頭 札幌市内の調理師学校 米穀店勤務と並行して通学
1970年代 札幌グランドホテル 直談判で採用・ワゴンサービスを担当
1970年代 帝国ホテル(東京) 村上信夫料理長のもとで修業
約1974〜1977年 在スイス日本大使館(ジュネーブ) 20歳で抜擢・3年8ヶ月勤務
約1977〜1982年 欧州三ツ星レストラン各店 ジラルデ・トロワグロ・シャペルに師事

学歴の特徴:中卒から世界のシェフへ

三國清三さんの最終学歴は中学校卒業です。

日本では高校進学率が高まっていた時代にあって、中学卒業後すぐに料理の世界へ踏み込んだことは、それだけでも当時として際立った選択でした。

高校や大学の学歴はないものの、帝国ホテルやスイスの日本大使館、さらにはヨーロッパの三ツ星レストランという「実地の現場」が三國さんにとっての真の学校になりました。

三國さん自身も著書のなかで「10年修業しなさい」という師・村上信夫さんの言葉を深く胸に刻み、その言葉通りにヨーロッパを渡り歩いたと語っています。

学校の成績や入試の偏差値とは無縁の世界を歩んだ三國さんですが、その代わりに積み上げてきたのは、世界トップクラスのシェフたちのもとで身につけた「本物の技術」でした。

中学を卒業した後の道のりが世界水準のシェフを生み出したという事実は、正規の学歴を超えた「修業」の価値を証明するエピソードとして、多くの若い料理人に語り継がれています。

北海道増毛町での幼少期と学校生活

三國清三さんが生まれ育ったのは、北海道留萌振興局に属する増毛郡増毛町です。

増毛町という土地

北海道の日本海側に位置する増毛町は、漁業と農業が盛んな小さなまちです。

ニシン漁で栄えた歴史を持ち、明治時代には道内有数の繁栄をみせたこともありましたが、三國さんが幼少期を過ごした頃には静かな漁師町の雰囲気が色濃く残っていました。

増毛町の人口はピーク時と比べて大きく減少していましたが、豊かな自然と新鮮な海の幸に恵まれた環境で、三國さんは幼少期を過ごしました。

幼少期の家庭環境

三國さんが育った家庭は決して裕福ではなく、生活は質素なものだったとされています

そのような家庭環境だったからこそ、中学卒業後に大学や高校ではなく、すぐに働きながら手に職をつける道を選んだのだと考えられます。

貧しかった幼少期の記憶は、のちに三國さんが「三流シェフ」という言葉を自らに冠した背景にもつながっています。著書のなかでも、貧しかった生い立ちを包み隠さず語り、それを誇りとして昇華させた姿が描かれています。

ここ、気になりますよね。豊かな才能を持ちながら、貧しい環境に育ったというギャップが、後の三國さんの飽くなき上昇志向の原動力になっていたのかもしれません。

学校生活と料理との出会い

三國さんが通ったとされる増毛町立増毛小学校・増毛中学校では、特別な料理教育があったわけではありませんでした。

しかしながら、増毛町という土地柄、食卓には新鮮な海産物が並ぶことも多く、食への関心は自然と育まれていたようです。

三國さんが「料理の世界を目指したい」と強く意識し始めたのは中学時代のこととされており、卒業後の進路として調理師を選んだ背景には、幼少期から培われた食への興味が深く関係しているものと思われます。

中学時代の成績や学校でのエピソードについて、三國さん自身が詳細に語った記録は少ないですが、その後の行動力と積極性を見れば、学校という場においても目立つ存在だったことは想像に難くありません。

小さな港町での静かな少年時代が、世界を席巻するシェフの原点になっていたとすれば、なんとも感慨深いエピソードだと思いませんか。

中学卒業後に選んだ調理師への道

三國清三さんは中学校を卒業後、故郷の増毛町を離れて札幌に移り住み、調理師への道を歩み始めます。

中卒で選んだ調理師という職業

中学校を卒業してすぐに調理師を志した三國さんは、高校進学という選択肢を取らず、すぐに働きながら料理の技術を身につける道を選びました。

当時の日本では高校進学率が年々上昇していた時代でしたが、家庭の事情や自分の将来への強い意志から、三國さんは別の道を選んだのです。

この判断は「学歴よりも実力」を体現するシェフとしての三國さんの人生哲学の原点とも言えます。正規の教育を受けるより先に、実際の現場で腕を磨くことを選んだのです。

札幌の米穀店で働きながら調理師学校へ

札幌に出てきた三國さんは、米穀店(お米を扱う店)に勤めながら、夜間や空き時間に調理師学校へ通うという生活を送りました

日中は米穀店で働いて生活費を稼ぎながら、並行して調理師の資格取得と技術習得に励む——そんな二足のわらじの生活は、まさに三國さんの強靭な意志の表れです。

調理師学校では料理の基礎や衛生管理、食材の扱い方などを学びます。ただ、三國さんが後に語るところによれば、学校で学んだ知識よりも、実際の現場に飛び込んでいくことのほうがはるかに大きな学びをもたらしてくれたとのことです。

学校で習う「教科書通りの料理」ではなく、一流のホテルや厨房の現場で求められる「本物の料理」を追い求める姿勢は、この頃からすでに芽生えていたようです。

調理師学校でのマナー研修が転機に

調理師学校に通うなかで、三國さんにとって大きな転機となる出来事が起こります。

学校のマナー研修で訪れたのが、札幌を代表する名門ホテル「札幌グランドホテル」でした。

この施設を訪れたことが、三國さんの人生を大きく変える「直談判」のきっかけになります。一般的な研修であれば、見学して終わりのはずでした。しかし三國さんはそこで終わらなかったのです。

「ここで働きたい」という強い衝動に突き動かされた三國さんが次にとった行動は、多くの人にとって想像を絶するものでした。調理師学校での学びが、こうして劇的な形で次のステージへの扉を開くことになったのです。

【直談判】札幌グランドホテルへの突撃

三國清三さんのキャリアを語るうえで欠かせないエピソードのひとつが、札幌グランドホテルへの直談判です。

マナー研修で訪れた名門ホテル

調理師学校のマナー研修で訪れた札幌グランドホテルは、北海道を代表する老舗名門ホテルです。

1934年(昭和9年)に開業した歴史ある施設で、政財界の要人や国内外のVIPが利用することで知られていました。調理師を目指す若者にとっては憧れの場所であり、通常であれば研修で施設を見学し、礼儀作法を学んで終わりのはずでした。

しかし三國さんの目に映ったのは、単なる見学の対象ではなく、「ここで腕を磨きたい」という強烈な欲求を掻き立てるキッチンとサービスの現場でした。

伝説の直談判シーン

研修の場で三國さんがとった行動は、まさに「直談判」そのものでした。

ホテルのスタッフや責任者に対して「ここで働かせてください」と直接申し出たのです。

普通であれば、まず履歴書を送り、選考を受け、面接をこなすという手順を踏むところです。しかし三國さんはそんな手続きを一切すっ飛ばし、その場で直接売り込みました。

この大胆な行動は、三國さんが後の人生でも繰り返し見せる「飛び込む力」の原点とも言えます。ジラルデ、シャペルといった天才シェフの店に飛び込んでいくスタイルは、まさにこの札幌グランドホテルでの直談判で培われたものです。

「本能的ですよ、理屈じゃなくて」と三國さん自身が語るように、チャンスと見たら理屈を超えて動く——そのDNAはこの時すでに全開になっていたと言えます。

ワゴンサービスへの抜擢と才能の開花

札幌グランドホテルに採用された三國さんは、その才覚をすぐに発揮します。

まもなくワゴンサービスを任されるまでに成長した三國さんは、ホテルというプロの現場で実地の経験を積みながら、料理人としての基盤を固めていきました。

ワゴンサービスとは、食材や料理をワゴンに乗せてテーブルサイドで仕上げるサービスのこと。客の目の前で調理や盛り付けを行うため、高い技術と洗練されたマナーが求められます。

若くしてこのポジションを任されたことは、三國さんの並外れた習得能力と積極性が認められた証でもありました。しかし三國さんは、札幌グランドホテルをゴールとは考えていませんでした。

彼の視線はさらに上——東京の帝国ホテルで料理長を務める「料理の神様」村上信夫さんのもとへと向いていたのです。

帝国ホテルへの移籍と村上シェフの出会い

札幌グランドホテルでの経験を積んだ三國清三さんは、次なる目標を帝国ホテルに定めます。

村上信夫料理長への強い憧れ

三國さんが目指したのは、帝国ホテルの村上信夫料理長でした。

村上信夫さんは「料理の神様」と称されるほどの伝説的な人物で、NHKの料理番組に長年出演するなど、日本の洋食文化の普及に多大な貢献をしてきたシェフです。当時の日本の料理人にとって、村上さんのもとで修業することは最高の名誉と言っても過言ではありませんでした。

三國さんは村上さんを「神様のような存在」と表現しており、その言葉からも当時の強い憧れが伝わってきます。

紹介状獲得の作戦

帝国ホテルへの就職を実現するために、三國さんが考えたのは紹介状を手に入れることでした。

札幌グランドホテルの総料理長に紹介状を書いてもらうという作戦を立て、見事に帝国ホテルへの道を開くことに成功します。

当時の料理の世界では、コネクションや師匠からの紹介が重要な役割を果たしていました。その慣例をうまく活用しながら、三國さんは一歩一歩目標へと近づいていったのです。

ここに三國さんの賢さが見えます。ただ突っ走るだけでなく、状況を読みながら必要なパスを確保する——この二面性が、三國さんの飛躍を支えた重要な要素だったと言えます。

洗い場からのスタートと正社員への道

帝国ホテルでの三國さんのスタートは、パートタイムの洗い場担当でした。

日本屈指の名門ホテルの厨房で、最も地味で体力を要するポジションからキャリアをスタートさせた三國さん。しかしその場所でも、三國さんは手を抜きませんでした。

当時の帝国ホテルには、パートタイマーを年次順に正社員として登用する慣行がありました。三國さんの順番が近づいてきた頃、惜しくもその慣行が廃止されてしまいます。

伝説の「鍋磨き18台」

正社員登用の夢が絶たれた三國さんは、故郷の北海道に帰ることを決意します。

しかしその前に、三國さんは最後の「爪痕」を残そうと、ホテル内18のレストラン全ての鍋を3カ月かけて磨き上げるという偉業を成し遂げます。

誰に頼まれたわけでもなく、評価されるかどうかもわからない。それでも「ここでお世話になった証を残したい」という一念から、膨大な量の鍋を磨き続けたのです。

この姿勢と熱心さは村上料理長の目にとまりました。そして三國さんが帰郷しようとした矢先、村上さんに呼び出されます。「三國君、ジュネーブに行きなさい。君を大使の料理人に推薦しました」——。この言葉が、三國さんの人生を劇的に変えることになります。

20歳でスイスへ|大使館料理人に抜擢

村上信夫料理長からの一言が、三國清三さんの人生を大きく変えました。

20歳での大抜擢

三國さんが在スイス日本大使館の料理人に推薦されたのは、まだ20歳の時のことでした

「海外に行くなんて、これっぽっちも思っていない」と語っていた三國さんでしたが、村上料理長の言葉に「3秒後には『行きます』と答えた」といいます。

この即断即決の姿勢もまた、三國さんの真骨頂です。理屈や準備よりも先に、本能的にチャンスを掴む——札幌グランドホテルへの直談判と同じDNAが発動した瞬間でした。

フルコースを一人で作ったことがない状態でスイスへ

驚くべきことに、三國さんはフランス料理のフルコースを一人で作った経験はもちろん、食べたことすらほとんどない状態でスイスに渡りました。

「瞬発力と、追い込まれると結構いいんですよ。必死だからアイデアが出る」と三國さんは語っています。

大使館の厨房では、各国の要人をもてなす本格的なフランス料理を一人で担当しなければなりません。経験不足を補うのは、持ち前の機転と必死の努力だけでした。

この状況は普通であれば尻込みするところです。しかし三國さんにとっては、それが最高の「修業の場」になりました。追い込まれた環境のなかで、三國さんは急速に成長していったのです。

大使館での3年8ヶ月とヨーロッパへの扉

在スイス日本大使館での勤務は約3年8ヶ月に及びました。

この期間、三國さんは大使館での職務をこなしながら、同時にヨーロッパの食文化に深く触れる機会を得ました。スイスはフランス語圏の文化が色濃く、フランス料理の本場ともいえる土地柄です。

任期を全うしながらも、三國さんはすでに次のステップを見据えていました。村上料理長の「10年修業しなさい」という教えを胸に、ヨーロッパの三ツ星シェフたちのもとで腕を磨くことを決意していたのです。

大使館での経験は、三國さんにとって外交の場における「食の力」を体感する貴重な機会でもありました。料理が国と国をつなぐ橋渡しになるという認識は、この時期に深まったと言われています。

三國清三の学歴が示す修業の本質

  • ヨーロッパ8年の修業と天才シェフたち
  • 「セ・パ・ラフィネ」が変えた料理哲学
  • 帰国後の独立|ビストロ・サカナザ時代
  • オテル・ドゥ・ミクニ誕生の物語
  • 【実績】学歴を超えた世界的評価
  • 三國清三の現在と新たな料理人生

ヨーロッパ8年の修業と天才シェフたち

大使館での勤務を終えた三國さんは、ヨーロッパの各地を渡り歩きながら、伝説的なシェフたちのもとで修業を積んでいきます。

スイス銀行よりも入るのが難しい店へ

三國さんが最初に師事したのは、フレディ・ジラルデという天才シェフでした。

「スイス銀行の金庫を破るよりも、ジラルデの店の席を取るほうが難しい」と言われたほどの超人気店で、ジラルデは”厨房のモーツァルト”の異名を持つカリスマ的な存在でした。

三國さんはこのジラルデに4年間師事し、その料理哲学を吸収しました。ジラルデが体現した「スポンタネ(spontané)」——つまり「ありのまま」「即興」「自発的」という料理スタイルは、三國さんの料理観に深く根付いていきます。

ジラルデの「スポンタネ」スタイルの衝撃

ジラルデのスタイルは、三國さんにとってカルチャーショックそのものでした。

試作は一切しない。レシピもない。客の注文を受けてから、その日に届いた新鮮な素材を自由奔放に組み合わせ、ものすごい集中力で料理を決めていく。どんな料理になるかは彼自身もわからない——そんな境地で調理を行うのです。

「素材を前に仁王立ちになり、その眼はいつも命を懸けていると言っていた」と三國さんは回想しています。

この経験は三國さんに、料理とは「レシピをなぞること」ではなく「その瞬間の素材と対話すること」だという根本的な認識をもたらしました。

トロワグロ兄弟・アラン・シャペルとの修業

ジラルデのもとに加えて、三國さんはジャンとピエールのトロワグロ兄弟、そしてアラン・シャペルのもとでも修業を積みます。

トロワグロは「ヌーヴェル・キュイジーヌ(新フランス料理)」の旗手として世界的に名高い存在で、軽やかで繊細な味わいのフランス料理を創り上げたシェフです。

アラン・シャペルは”厨房のダ・ヴィンチ”の異名を持つ完璧主義者で、その洗練された料理は世界の美食家を虜にしてきました。

これほどの面々のもとで修業を積んだ料理人は、世界中を見渡しても非常に稀です。三國さんのヨーロッパ8年間は、どんな大学の学位よりも価値のある「実践的な高等教育」だったと言えます。

「セ・パ・ラフィネ」が変えた料理哲学

ヨーロッパ修業のなかで、三國清三さんの料理哲学を根底から変えるひとつの出来事がありました。

シャペルからの一言

アラン・シャペルの厨房で魚料理を担当し、フランス人スタッフを指揮していた三國さんに、シャペルが放った言葉がありました。

「セ・パ・ラフィネ(Ce n’est pas raffiné)」——「洗練されていない」という一言です。

ザリガニのムースを盛り付けていた三國さんに向けられたこの言葉は、大きな挫折感をもたらしました。理由がわからない。1カ月、2カ月……と考え続けました。

1〜2ヶ月の苦悩と気づき

考え続けた末に三國さんが辿り着いた答えは、非常にシンプルなものでした。

「ぼくはフランス人じゃない」——。

どれほど技術を磨いても、日本人がフランス料理を作ればフランス人のそれとは必ず何かが違う。その違いは欠点ではなく、むしろ個性として活かせるはずだ、と気づいたのです。

「もう無理だな、日本人にはあんなフランス料理は作れない」と感じる一方で、「味噌、米、そうめん大好きだし、1日1回、刺し身食わないと生きていけない。素直になってそういうフランス料理を作ろう」と決意を固めました。

日本人としてのフランス料理の確立

この転換点から、三國さんの料理哲学が確立されます。

「フランス人のようにフランス料理を作るのをやめる。ぼくは日本人として、フランス料理を作る」——この覚悟が、のちに「三國清三」というブランドを世界的なものにする原動力になりました。

日本の食材や食文化をフランス料理の文脈に取り込むアプローチは、当初こそ「邪道だ」「あんなものはフランス料理じゃない」という批判を受けました。しかし同時に「個性がある」「挑戦的だ」「おいしい」という評価も多く集まりました。

後年、師のシャペル自身が三國さんの店を訪れ、ゲストブックに「キヨミはフランス人シェフたちの料理を見事に”ジャポニゼ”してのけた」と記したのは、三國さんがかつての師への最高の答えを示した瞬間でもありました。

学歴ではなく、現場の経験と苦悩の末に掴んだこの哲学こそが、三國清三というシェフの真の「学び」だったのかもしれません。

帰国後の独立|ビストロ・サカナザ時代

1982年12月、約8年に及ぶヨーロッパ修業を終えた三國清三さんは、日本に帰国します。

帰国後の状況と雇われシェフとしての船出

帰国から4カ月後の1983年3月、東京・市ヶ谷に「ビストロ・サカナザ」がオープンし、三國さんはこの店の雇われシェフになりました。

実はヨーロッパ修業中から、三國さんの存在は料理専門誌などで紹介されており、「三ツ星店を渡り歩く日本人シェフ」として注目を集めていました。その評判を聞いたサカナザのオーナーが、わざわざパリまでスカウトに来ていたのです。

「料理は三國さんがやりたいようにやってくれていい」というオーナーの言葉に心を動かされ、帰国後に連絡を入れて実現したのがこの雇われシェフとしてのスタートでした。

とんがった料理スタイルと評判

ビストロ・サカナザでの三國さんの料理は、当時の日本では極めて異色のものでした。

味噌や醤油、米、そして天ぷらにそうめん、焼き鳥、フカヒレなど、自分がおいしいと感じる素材をフランス料理の文脈に取り込んでいく——そのスタイルは批判も呼びましたが、同時に多くの食通を魅了しました。

マスコミ系の発信力のある人たちにも注目されたことで口コミが広がり、気づけばいつも満席の話題の店になっていました

オーナーとの大ゲンカと店の退場

しかし好調な滑り出しも、1年8ヶ月で終わりを迎えます。

オーナーが「そろそろ年中無休にしようか」と提案してきたことに、三國さんは激しく反発しました。「僕が休みの時は誰が料理を?」「僕の料理は僕にしか作れませんよ」という言葉が飛び出し、口論の末に前掛けを投げ捨てて店を飛び出してしまいます。

この一件を三國さん自身は「若気の至り」と振り返っています。仕事を失うと同時に、オーナーが用意してくれていたマンションも失い、住む場所も貯金もゼロになりました。しかし、この状況が次の挑戦への起爆剤になるのです。

オテル・ドゥ・ミクニ誕生の物語

ビストロ・サカナザを飛び出した三國清三さんは、30歳での独立という夢に向けて動き出します。

理想の物件を探す困難な旅

三國さんが思い描いていたのは、緑豊かな落ち着いた住宅街の中にある一軒家レストランという理想でした。

不動産業の知人に案内してもらいながら都内の物件を見て歩きましたが、なかなかピンとくるものに出会えませんでした。住む場所も貯金もない状態で、かつて自分について来てくれたサカナザの旧スタッフが日雇い仕事をしながら待ってくれているという状況のなか、三國さんは焦りを感じながらも妥協せずに物件を探し続けます。

四谷の洋館との運命的な出会い

そして1985年の年明け、三國さんはついに理想の場所に巡り合います。

東京・四ツ谷の学習院初等科の裏手、迎賓館にほど近い閑静な住宅街の奥まったところにあった洋館でした。門から中をうかがうと、木々が生い茂った奥に落ち着いた佇まいの建物が見えます。

「気に入った、ここだ!」と直感した三國さんは、夜だったにもかかわらず迷わず呼び鈴を押しました。

出迎えてくれた家主さんに「こちらのお屋敷をお借りしてフレンチレストランをやりたいのですが」と単刀直入に申し出たのです

このダメ元の飛び込みが見事に実り、交渉の末に物件を借りることに成功。こうして1985年、オテル・ドゥ・ミクニがオープンしました。

開業から伝説の店へ

開業当初は住宅街の一軒家という立地もあり、客足はなかなか伸びませんでした。赤字が続くなか、三國さんが打った手は料理の写真集の出版でした。

1986年に出版した「皿の上に、僕がある。」(柴田書店)は、それまでの料理写真の常識を破り、真上からの撮影で統一した斬新なビジュアルが話題に。「世界のシェフでこの本を持っていない人はいない」と言われるほどの反響を呼び、「キヨミ・ミクニ」は一気にワールドワイドな存在になりました。

その後はバブル景気とも相まって人気が爆発し、何ヶ月も先まで予約が取れない店として長く愛され続けました。そして2022年12月28日に37年の歴史に幕を閉じました

【実績】学歴を超えた世界的評価

中学卒業という学歴から出発した三國清三さんは、その後どれほどの評価を世界から受けてきたのでしょうか。

写真集が開いた世界への扉

1986年の写真集「皿の上に、僕がある。」は、三國さんを世界的に有名にした転機となりました。

120にも及ぶ料理の一皿一皿を真上から撮影し、その造形美を鮮烈なビジュアルで伝えたこの写真集は、発売直後から国内外の料理人や食通の間で大きな話題となりました。

三國さんは「世界に叩きつけた挑戦状」と豪語しており、その言葉通り、日本発のフランス料理が世界の料理界に一石を投じる作品となりました。

師シャペルからの最高の評価

開店から5年後、師事したアラン・シャペルが店を訪れ、ゲストブックに言葉を残しました。

「キヨミはフランス人シェフたちの料理を見事に”ジャポニゼ”してのけた」という言葉は、「セ・パ・ラフィネ」と言った師匠からの最高の評価でもありました。

「ジャポニゼ(Japoniser)」とは、日本化するという意味のフランス語。日本の食材や食文化をフランス料理の可能性を広げるかたちで取り込んだ三國さんの仕事が、師にも認められた瞬間でした。

後進への影響と弟子育成

三國さんのもとからは多くの優秀な料理人が育っています。

「スタッフがいてのお店ですからね、1人じゃできない」という言葉が示すように、晩年の三國さんはスタッフへの深い感謝を公言してきました。

37年間続いたオテル・ドゥ・ミクニの閉店のあいさつ状には、スタッフ全員の写真とともに「あなた方がいてくれたおかげで、こんなにも長く続けることができました。深く感謝します。」と記されていました。

学歴ではなく現場の経験と人との繋がりで世界を切り拓いてきた三國さんの生き方は、多くの若い料理人にとって最高のロールモデルとなっています。

料理界の常識を覆し続けてきた三國さんの姿勢は、日本の食文化そのものを底上げしてきたとも言えます。中学卒業後に調理師学校へ進んだという出発点からは想像もできないほど大きな足跡が、日本のフランス料理史に刻まれているのです。

三國清三の現在と新たな料理人生

オテル・ドゥ・ミクニを閉店した三國清三さんは、2023年以降も精力的に活動を続けています。

YouTubeでの家庭料理普及活動

三國さんは2020年にYouTubeチャンネルを開設し、現在の登録者数は約40万人にのぼります

フランス料理の技術を活かした家庭料理のレシピを発信するチャンネルで、「一般の人があるものでささっと作れること」を大切にした動画が多くの支持を集めています。

ハンバーグの回ではソースにみりんを使用するなど、日本の調味料を積極的に取り入れているのも三國さんらしいスタイルです。「フォアグラ、トリュフはお店で食べてもらえばいい。フランス料理を身近に分かりやすく落とし込むかが大事」という言葉に、三國さんの料理哲学が凝縮されています。

師の村上信夫さんがNHK「きょうの料理」で洋風料理の普及に努めたように、自分も料理を大衆に届けるという使命感を持っていることを三國さん自身が認めています。

新店「三國」への準備

三國さんは現在、オテル・ドゥ・ミクニの四谷の跡地に、カウンター8席だけの新たなレストランを開く準備を進めています。

店名は「三國」。調理はもちろん、食材を吟味しての仕入れ、下ごしらえもすべて自分で行うという、究極の「一人で完結するレストラン」を目指しています。

「8席というのは1人でできるレベル。お客さんに1から10まで自分が作ったもの、三國さんの料理を食べてもらう。料理人人生イコール、僕の人生だから」という言葉は、70歳を超えてなお料理への情熱が衰えないことを雄弁に物語っています。

70歳からのキャリア再スタート

オテル・ドゥ・ミクニを閉店した理由のひとつは、70歳からのキャリア再スタートを見据えてのことでした。

「一般的に60歳ぐらいが味覚のピーク。70歳になるとリタイアというイメージがあるけれど、100歳時代の今、70代からどうやって現役を全うするか」と考え、逆算した結果が2022年の閉店だったのです。

また、フランス語の学び直しも始めています。「現場で『てめえ、この野郎、早くしろ』とかっていうフランス語しか覚えてないので一から勉強するんです」と語り、一般の学生と同じグループレッスンを受講しているとのこと。

中学卒業という学歴から出発し、現場の修業一筋で世界の頂点に立った三國さんが、70歳を超えてもなお学び続けている姿は、学歴の有無を超えた「本物の姿勢」を示しているようで、多くの人に勇気を与えています。

三國清三の学歴と料理人生の総括まとめ

  • 三國清三さんの最終学歴は北海道増毛町立増毛中学校卒業で、高校・大学への進学はない
  • 中学卒業後、札幌市内の調理師学校に通いながら米穀店で働く二足のわらじの生活を送った
  • 調理師学校のマナー研修で札幌グランドホテルを訪れ、その場で直談判して採用された
  • 帝国ホテルの村上信夫料理長に師事するため紹介状を手に入れ、洗い場からキャリアをスタート
  • 鍋磨き18台の熱心さが評価され、20歳で在スイス日本大使館付き料理人に推薦された
  • 3年8ヶ月の大使館勤務を経て、ヨーロッパ各地の三ツ星レストランで修業を積んだ
  • フレディ・ジラルデに4年間師事し、「スポンタネ」スタイルの料理哲学を学んだ
  • アラン・シャペルから「セ・パ・ラフィネ(洗練されていない)」と言われたことで「日本人として作るフランス料理」の哲学が確立した
  • 1982年12月に帰国し、翌年3月に「ビストロ・サカナザ」の雇われシェフとなる
  • 1年8ヶ月でサカナザを退場後、1985年に四谷の洋館でオテル・ドゥ・ミクニを開業した
  • 1986年の写真集「皿の上に、僕がある。」で世界的な知名度を獲得した
  • 2022年12月28日、37年の歴史を持つオテル・ドゥ・ミクニが閉店した
  • YouTubeチャンネルの登録者数は約40万人で、家庭料理の普及に取り組んでいる
  • 四谷の跡地にカウンター8席の新店「三國」を開く準備を進めている
  • 70歳からのキャリア再スタートを見据え、フランス語の学び直しも始めるなど向上心は衰えを知らない