西野亮廣の学歴|川西緑台高校の偏差値と大学に行かなかった理由

西野亮廣の学歴|川西緑台高校の偏差値と大学に行かなかった理由

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

西野亮廣さんは、お笑いコンビ「キングコング」のツッコミ担当として知られ、絵本作家やビジネス書の著者としても幅広く活躍しています。

兵庫県立川西緑台高校を卒業後、大学には進学せず吉本総合芸能学院(NSC)に入学した異色の経歴の持ち主です。

この記事では、西野亮廣さんの学歴を小学校から高校まで時系列で整理し、芸人を志したきっかけについて詳しくまとめます。

記事のポイント

①:川西緑台高校出身で偏差値は63

②:大学には進学せずNSCに入学

③:高校時代はハンドボール部で活躍

④:両親の教育方針が独特だった

西野亮廣の学歴と出身校を徹底解説

  • 西野亮廣の学歴一覧と基本情報
  • 多田東小学校での泣き虫な少年時代
  • 多田中学校で猛勉強した理由
  • 川西緑台高校の偏差値と入学経緯
  • ハンドボール部での意外な実力
  • 高校時代から光った絵の才能と破天荒エピソード

西野亮廣の学歴一覧と基本情報

 
 
 
 
 
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まず、西野亮廣さんの学歴と基本的なプロフィールを整理します。

学歴一覧表

学校種別 学校名 偏差値 備考
小学校 川西市立多田東小学校 地元川西市の公立校
中学校 川西市立多田中学校 公立校・バスケ部所属
高校 兵庫県立川西緑台高校 63 一般受験で合格
大学 進学せず NSCに入学

西野亮廣さんは小学校から高校まですべて地元の兵庫県川西市内の学校に通っています。

高校は偏差値63の進学校に一般受験で合格しており、学力が高かったことがうかがえますよね。

基本プロフィール

項目 内容
本名 西野亮廣(にしの あきひろ)
生年月日 1980年7月3日
2026年04月09日現在の年齢 45歳
出身地 兵庫県川西市
身長 173cm
体重 57kg
血液型 O型
職業 お笑い芸人・絵本作家・実業家
所属 吉本興業(キングコング)

家族構成は両親と兄、姉、弟の6人家族で、西野亮廣さんは4人兄弟の3番目にあたります。

男兄弟だけでも父親・兄・西野亮廣さん・弟と4人おり、にぎやかな家庭で育ったことがわかりますよね。

お笑い芸人と絵本作家の二刀流

西野亮廣さんは「キングコング」としてのお笑い活動だけでなく、絵本『えんとつ町のプペル』が大ヒットしたことでも知られています。

映画化もされて大きな話題となり、ビジネス書の執筆やオンラインサロンの運営など、多方面で活躍しています。

こうした多才ぶりの原点がどこにあるのか、ここ、気になりますよね。

学生時代のエピソードをたどると、その答えが見えてきます。

多田東小学校での泣き虫な少年時代

西野亮廣さんの学歴の出発点は、川西市立多田東小学校です。

意外にも泣き虫だった幼少期

結論から言うと、西野亮廣さんは子供の頃はかなりの泣き虫だったそうです。

現在のバイタリティあふれる姿からは想像しにくいかもしれませんが、幼少期はよく泣いていたとインタビューで明かしています。

ただし泣き虫であると同時に、周囲を笑わせることが大好きな子供でもありました。

このあたりのギャップが、後のお笑い芸人としての素質につながっているのかもしれません。

小学2年生で芸人を志す

 
 
 
 
 
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西野亮廣さんは小学2年生の頃からお笑い芸人になりたいと考えていたそうです。

きっかけは、夜にテレビで見たお笑い番組を翌日学校で同級生にマネして見せたところ、大ウケしたことでした。

さらに、そのおかげで好きだった女の子から話しかけられたというエピソードも残っています。

「面白いことをすれば向こうから来てくれるんだ」と気づいた瞬間が、西野少年の人生を大きく変えたわけですね。

小学校時代から学校で同級生を相手にネタを披露しており、すでにエンターテイナーの片鱗を見せていました。

運動神経抜群で女子にも人気

西野亮廣さんは子供の頃から運動神経が万能で、小学校時代には野球をやっていました。

面白くて運動もできるということで、当時から女子にかなり人気があったとのことです。

また、地元川西市の自然環境も西野少年に大きな影響を与えています。

小学1〜2年生の頃に鼓が滝の山に登り、真っ暗な中で見た星空に感動した体験が、後の絵本創作の原点になったと本人が語っています。

絵本『えんとつ町のプペル』の「星」というモチーフも、この体験が根底にあるとのことです。

プロレス観戦がエンタメへの目覚めに

さらに、小学2〜3年生の頃に旧ダイエーの駐車場で行われたプロレスの巡業を体験したことも、大きな転機になりました。

ブルーシートが張られて中が見えなかったものの、シートに耳を当てると技が決まるたびに歓声が聞こえてきたそうです。

その熱狂に心臓がバクバクし、「熱狂をつくる人になりたい」と強く思ったと語っています。

この体験がエンターテインメントの世界を志す原点となりました。

多田中学校で猛勉強した理由

西野亮廣さんは川西市立多田中学校に進学しています。

バスケットボール部の主力選手

中学校ではバスケットボール部に所属し、主力選手として活躍しています。

運動神経の良さは小学校時代からのもので、駅伝大会の際には陸上部の助っ人として出場したこともあるほどです。

スポーツ万能な一面に加え、中学時代から漫画や絵を描くのが大好きだったとのことで、文武両道の学生生活を送っていました。

女子からのモテぶり

西野亮廣さんは中学・高校時代を通じて女子にはかなりモテたそうです。

面白くて運動ができてイケメンとなれば、これはモテないわけがないですよね。

ルックスの良さは後にテレビで活躍する際にも大きな武器になっていきます。

母親の一言で進学を決意

実は西野亮廣さんは当初、中学校を卒業したらそのままNSC(吉本総合芸能学院)に入ろうとしていました。

小学2年生から芸人になりたいと思い続けていたので、早く行動したかったのでしょう。

しかし母親から「高校さえ出ていればそこから先はもういい」と言われたことで、高校進学を目指す方向に切り替えています。

この母親の言葉がなければ、西野亮廣さんの学歴は中卒で止まっていた可能性もあるわけです。

中学2年後半から猛勉強を開始

高校進学を決意してからの行動は素早く、中学2年生の後半から猛勉強を始めたとのことです。

その結果、偏差値63の進学校である兵庫県立川西緑台高校に一般受験で合格しています。

芸人になりたい一心で中卒で飛び出そうとしていた少年が、母親の一言で勉強に火がつき、進学校に受かるというストーリーはなかなかドラマチックですよね。

やると決めたら一気に突き進む行動力は、この頃からすでに発揮されていたようです。

川西緑台高校の偏差値と入学経緯

西野亮廣さんの学歴で最も注目されるのが、高校時代です。

川西緑台高校の基本情報

項目 内容
学校名 兵庫県立川西緑台高校
所在地 兵庫県川西市
種別 県立・共学
偏差値 63(やや難関)
特徴 京大・阪大への合格者を輩出する進学校

兵庫県立川西緑台高校は、京都大学や大阪大学にコンスタントに合格者を送り出している進学校です。

西野亮廣さんはこの高校に一般受験で合格しており、中学2年後半からの猛勉強がしっかり実を結んだことがわかります。

偏差値には異なる情報も

ただし、偏差値については少し注意が必要です。

現在の偏差値は63とされていますが、西野亮廣さんが入学した当時は偏差値40台前半だったという情報も寄せられています。

学歴情報サイトによると、当時のレベルを知る方から「入学時は偏差値40台前半程度だった」との情報提供があったそうです。

高校の偏差値は年代によって変動することがあるため、現在の63という数値がそのまま西野亮廣さんの在学時に当てはまるとは限りません。

いずれにしても、中卒でNSCに行くつもりだった少年が猛勉強して合格したという事実は変わりませんよね。

NSCに行くはずだった少年が進学校へ

前述の通り、西野亮廣さんは中学卒業後にNSCに入るつもりでした。

母親の「高校さえ出ていればいい」という言葉で方向転換し、進学校に合格するまでの集中力は見事というほかありません。

この「やると決めたら全力で取り組む」という姿勢は、後の芸人活動や絵本制作、ビジネス展開にも通じるものがあります。

ハンドボール部での意外な実力

川西緑台高校での西野亮廣さんは、勉強よりもスポーツや課外活動に熱中していました。

ハンドボール部を選んだ理由

結論から言うと、西野亮廣さんがハンドボール部を選んだ理由は「すぐレギュラーになれそうだったから」というものでした。

当時の川西緑台高校ハンドボール部は3年生が0人、2年生が2人しかおらず、廃部寸前の状態だったのです。

ハンドボールは7人制のスポーツなので、人数が足りない状態。

西野亮廣さんは中学時代の友人たちを誘って入部し、当初は遊び半分のつもりだったそうです。

県の育成メンバーに選出される実力

ところが、入部後は本気で部活動に打ち込むようになり、兵庫県の育成メンバーに選ばれるほどの実力をつけています。

西野亮廣さんを含め、誘った仲間たちも運動神経が良かったことから、当時兵庫県高校リーグの5部に在籍していた同校のハンドボール部は、その後なんと1部リーグまで駆け上がっています。

5部から1部への昇格は驚異的な成果ですよね。

選手兼監督という異例の体制

さらに面白いのは、当時のハンドボール部は監督が素人だったという点です。

そのため西野亮廣さんらが実質的に選手兼監督を務めていたそうです。

自分たちで戦術を考え、練習メニューを組み、5部から1部まで這い上がったわけですから、この経験はリーダーシップやマネジメント能力を鍛える場にもなっていたといえます。

後に実業家として活躍する西野亮廣さんのマネジメント力の原点は、この高校時代のハンドボール部にあるのかもしれません。

高校時代から光った絵の才能と破天荒エピソード

西野亮廣さんの高校時代は、スポーツだけでなく芸術面でも才能を発揮していました。

独学でマスターした絵の技術

結論から言うと、西野亮廣さんは絵を本格的に習ったことは一度もなく、すべて独学でマスターしています。

中学時代から漫画や絵を描くのが好きでしたが、高校時代にはその画力が周囲の注目を集めるレベルに達していました。

美術の教師からは美術大学への進学を勧められるほどだったそうです。

しかし西野亮廣さんはお笑い芸人になりたい気持ちが強く、美大への進学は選びませんでした。

この判断が後に絵本作家としての大ブレイクにつながるのですから、人生は面白いものですよね。

成績は悪かったが学校は大好き

進学校に通いながらも、西野亮廣さん自身は「成績はめちゃくちゃ悪かった」と語っています。

毎日きちんと学校に通い、授業もちゃんと聞いていたにもかかわらず成績が上がらなかったそうです。

ただし「学校が超好きだった」とも語っており、周りの友人たちは頭が良く、友人には恵まれていたとのことです。

成績は振るわなくても学校生活自体を心から楽しんでいた様子がうかがえます。

アロンアルファ事件とクリスマスツリー伝説

高校時代の西野亮廣さんは、かなり破天荒なエピソードの持ち主でもあります。

高校3年生のときには友人とアロンアルファにハマり、指同士をくっつけて何秒耐えられるか競ったり、カマキリ3匹の背中を接着して「最強のカマキリ」を作ったりしていたそうです。

本人いわく「もう、絶望ですよ(笑)」とのこと。

さらに有名なのが、終業式の前日の夜に学校に忍び込んで運動場にクリスマスツリーを立てるという恒例行事です。

12月25日が2学期の終業式だったため、毎年12月に入ると友人たちが西野亮廣さんの家に集まって計画を練り、24日の夜に実行していました。

まあまあ大きい木をワイヤーで固定して倒れないようにするなど、意外と本格的な作業だったようです。

先生にはバレていて、終業式で「心当たりのある奴は片付けておけ」と毎年言われていたというオチも最高ですよね。

これを3年連続で続けたというのですから、その行動力と遊び心はさすがというほかありません。

バレンタインのチョコ40個伝説

イケメンでスポーツ万能、面白い性格の西野亮廣さんは高校時代も女子からかなりモテていました。

バレンタインデーには40個ものチョコレートをもらったこともあったそうです。

高校時代には交際していた彼女もおり、マクドナルドでアルバイトをして稼いだお金で、クリスマスに7万円の指輪をプレゼントしたエピソードも残っています。

高校生が7万円の指輪を贈るというのはなかなかの気合いですよね。

西野亮廣の学歴から見えるキャリアの原点

  • 大学に進学しなかった理由と覚悟
  • NSC入学と豪華すぎる同期メンバー
  • キングコング結成までの経緯
  • 父親と母親の型破りな教育方針
  • 川西市が育んだ創作の原風景

大学に進学しなかった理由と覚悟

 
 
 
 
 
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西野亮廣さんの学歴で最も注目すべきポイントの一つが、大学に進学しなかったという選択です。

進学校卒業後にNSCへ

結論から言うと、西野亮廣さんは高校卒業後に大学には進学せず、吉本総合芸能学院(NSC)に入学しています。

偏差値63の進学校を卒業しながら大学ではなくお笑いの道を選ぶというのは、当時としてはかなり思い切った決断だったはずです。

周囲の同級生たちが京都大学や大阪大学を目指す中で、一人だけNSCに向かうわけですから、相当な覚悟があったことがうかがえます。

美術教師の進学勧誘を断る

前述の通り、高校時代には美術教師から美術大学への進学を勧められていたそうです。

絵の才能が認められていたわけですが、西野亮廣さんの中では「お笑い芸人になる」という夢がブレることはありませんでした。

小学2年生から抱き続けた夢を貫き通したということですよね。

両親は反対しなかった

注目すべきは、進学校を卒業してNSCに入学する際も両親は反対しなかったという点です。

母親はかつて「高校さえ出ていればいい」と言っていましたが、その言葉通り、高校を卒業した後の進路については息子の選択を尊重してくれました。

この両親の姿勢が、西野亮廣さんが迷いなく芸人の道に進めた大きな要因だったのでしょう。

子供の意思を尊重しながらも最低限のラインは示すという教育方針は、多くの保護者にとっても参考になるのではないでしょうか。

NSC入学と豪華すぎる同期メンバー

西野亮廣さんが入学したNSCの同期は、後に芸能界で大活躍するメンバーが揃っていました。

NSCの豪華同期一覧

芸人名 コンビ・活動名 備考
西野亮廣 キングコング ツッコミ担当
梶原雄太 キングコング ボケ担当
山里亮太 南海キャンディーズ ツッコミ担当
ユースケ・津田篤宏 ダイアン
村本大輔 ウーマンラッシュアワー ボケ担当
なかやまきんに君 ピン芸人 筋肉芸で人気

ダイアン、南海キャンディーズの山里亮太さん、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さん、なかやまきんに君らが同期という、とんでもなく豪華な世代です。

これだけの才能が同期に集まっていたというのは、切磋琢磨の環境としては最高だったのではないでしょうか。

NSC時代のギラギラした西野亮廣

ダイアンのユースケさんによると、NSC時代の西野亮廣さんは「売れよう感がすごかった」そうです。

キングコング結成前のコンビ時代には、コンビ名と名前を書いたプレートを首から下げていたとのこと。

覚えてもらうための努力を惜しまない姿勢に、ユースケさんも「こいつすげえな」と感じたそうです。

他の同期がまだ照れながらネタ見せをしている中、西野亮廣さんだけは全力で売れようとしていたわけですね。

この貪欲さが、後の最速ブレイクにつながっていくのです。

最初のコンビは「グリーングリーン」

実は西野亮廣さんは、梶原雄太さんとキングコングを組む前に別の相方とコンビを組んでいました。

そのコンビ名は「グリーングリーン」といいます。

しかしNSCの同期だった梶原雄太さんと当初から仲が良く、グリーングリーンの相方よりも一緒にいる時間が多かったことから、コンビを組み替えることになりました。

キングコング結成までの経緯

西野亮廣さんと梶原雄太さんがキングコングを結成した背景には、NSCでの出会いがありました。

1999年にキングコング結成

結論から言うと、西野亮廣さんが19歳だった1999年にキングコングが結成されています。

NSCの同期で最初から仲が良かった梶原雄太さんと意気投合し、コンビを組むことになりました。

前述の通り、当時の相方よりも梶原さんと過ごす時間のほうが長かったことが決め手になっています。

結成の舞台は地元川西市の山

興味深いのは、キングコングの結成を決めた場所が川西市の満願寺付近の山だったという点です。

西野亮廣さんは梶原さんとコンビを組む前からよく2人で川西市に遊びに来ていたそうです。

地元川西市がコンビ誕生の舞台にもなっているというのは、運命的なものを感じますよね。

史上最速でテレビのレギュラーを獲得

キングコングは結成後、瞬く間にブレイクしています。

NSC在学中から注目を集め、結成からわずか数年でテレビのレギュラー番組を多数獲得する活躍を見せました。

NSC時代からギラギラしていた西野亮廣さんの貪欲さと、梶原雄太さんとの相性の良さが見事にかみ合った結果といえます。

その後も西野亮廣さんは絵本作家やビジネス書著者、オンラインサロン運営など活動の幅を広げ続けており、お笑い芸人の枠を超えた唯一無二の存在となっています。

父親と母親の型破りな教育方針

西野亮廣さんの学歴やキャリアを語る上で欠かせないのが、両親の教育方針です。

父親のコピー用紙エピソード

結論から言うと、西野亮廣さんの両親はとにかく褒めて育てるタイプだったそうです。

象徴的なエピソードがあります。

幼少期の西野亮廣さんが軽石で家の前のアスファルトに落書きをしまくり、近所の人から怒鳴り込まれたことがありました。

さすがに怒られるかと思いきや、父親は翌日、会社から大量のコピー用紙を持ち帰り「ここに描いた方がもっと描きやすいぞ」と言ったそうです。

絵を描いたこと自体は否定せず、もっと良い環境を与えるという対応は、なかなかできることではありませんよね。

この出来事が、後に絵本作家として大成する息子の創作意欲を育んだといっても過言ではないでしょう。

天然すぎる母親の伝説

一方、母親はかなりの天然キャラだったようです。

男4人(父親・兄・西野亮廣さん・弟)の白ブリーフの区別がつかず、家族会議を開いてゴムの部分に名前を書く許可を取ったものの、全員の名字「西野」と書いてしまったというエピソードがあります。

4人とも「西野」なので結局区別がつかないわけで、子供ながらに「やばいなこいつ」と思ったそうです。

また、エレベーターに閉じ込められた際、非常ボタンを押して警備会社につながったところ、状況説明ではなく「1階までお願いします」と行き先を伝えたというエピソードもあります。

西野亮廣さんは「最先端の音声認識機能としてあのボタンを使っていた」とツッコんでいました。

褒めて伸ばす教育の結果

父親は寡黙で真面目なタイプ、母親は天然。

この2人に共通していたのは、「何かをやりたい、モノを作りたい」という息子の気持ちを決して否定しなかったという点です。

裕福な家庭ではなかったため、お金の面でブレーキがかかることも多かったそうですが、あの手この手でとにかくやらせてくれたと本人が語っています。

西野亮廣さん自身も「正しいかどうかはわからないが、少なくとも親には感謝している」と述べています。

止められず、褒められ、「もっとやれ」と言われて育った結果が、お笑い芸人であり絵本作家であり実業家という唯一無二のキャリアにつながっているわけですね。

川西市が育んだ創作の原風景

西野亮廣さんの学歴と創作活動は、地元・川西市の風景と深く結びついています。

えんとつ町のモデルは川西市

結論から言うと、西野亮廣さんの代表作『えんとつ町のプペル』の「えんとつ町」というシチュエーションは、山々に囲まれた川西市に似ていると本人が語っています。

作品に繰り返し登場する「星」というモチーフも、小学生時代に鼓が滝の山で見た星空が原体験になっています。

新刊ビジネス書のタイトルが『北極星』であることについても、子供の頃によく登った妙見山が「北極星の神様が降り立った場所」とされていることに縁を感じると述べています。

銀橋の公園で毎日ネタ練習

高校1年生から毎日、猪名川にかかる銀橋の交差点近くにあるひな壇状の小さな公園に集まり、劇場に見立ててネタを披露していたそうです。

部活が終わった後、友人たちとこの公園で毎日お笑いの練習をしていたということですから、その情熱は本物ですよね。

この頃にはすでに「吉本に行く」と心に決めており、テレビや舞台の世界で活躍することを夢見ていました。

川西市との包括連携協定

西野亮廣さんは現在、自身が代表取締役を務める「CHIMNEY TOWN(チムニータウン)」を通じて、川西市と包括連携協定を締結しています。

エンターテインメントの力でまちの魅力を高めていくという取り組みで、地元への恩返しとも言える活動です。

川西市役所1階にはコマ撮り短編映画「ボトル・ジョージ」のオブジェも展示されているそうです。

絵本創作の原点も、漫才コンビ結成の原点も、すべて川西市にあると本人が語っている通り、地元の風景が西野亮廣さんのクリエイティビティを育んだことは間違いありません。

西野亮廣の学歴と芸人への道の総まとめ

  • 西野亮廣1980年7月3日生まれ、兵庫県川西市出身のお笑い芸人・絵本作家・実業家
  • 出身小学校は川西市立多田東小学校で、小学2年生からお笑い芸人を志していた
  • 出身中学校は川西市立多田中学校で、バスケットボール部の主力選手として活躍
  • 母親の「高校さえ出ていればいい」という一言で進学を決意し、中学2年後半から猛勉強を開始
  • 出身高校は兵庫県立川西緑台高校(偏差値63)で一般受験合格
  • 高校ではハンドボール部に所属し、兵庫県の育成メンバーに選ばれるほどの実力だった
  • 同校ハンドボール部を5部から1部リーグまで引き上げる立役者に
  • はすべて独学でマスターし、美術教師から美大進学を勧められるレベルだった
  • 高校卒業後は大学には進学せず、吉本総合芸能学院(NSC)に入学
  • NSCの同期にはダイアン山里亮太村本大輔なかやまきんに君ら豪華メンバーが揃う
  • 1999年に梶原雄太とキングコングを結成し、史上最速クラスでブレイク
  • 父親は「もっと描きやすいぞ」とコピー用紙を持ち帰り、褒めて伸ばす教育を徹底していた
  • 母親の天然エピソードは白ブリーフに全員「西野」と書いた伝説が有名
  • 高校時代はバレンタインに40個のチョコをもらうほどのモテぶりだった
  • 川西市が創作の原点であり、現在はチムニータウンを通じて包括連携協定を締結している