加藤登紀子の学歴|東京都立駒場高校から東京大学卒業した才女

加藤登紀子の学歴|東京都立駒場高校から東京大学卒業した才女

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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加藤登紀子さんの学歴について、「東大卒の歌手」というイメージを持っている方は多いのではないでしょうか。

旧満州ハルビン生まれ、京都育ちという独自のバックグラウンドを持ちながら、東京都立駒場高校を経て東京大学文学部西洋史学科を卒業という輝かしい経歴の持ち主です。

しかし本人は東大合格について「ヤマが当たっただけ、合格はまぐれ」と謙遜しており、その発言が今も話題になっています。

この記事では、加藤登紀子さんの学歴を幼少期から大学卒業まで順を追って整理しながら、シンガーソングライターとしての活躍や国際的な社会貢献の歩みも一緒に紹介します。

記事のポイント

①:東大文学部西洋史学科卒の高学歴歌手

②:東大在学中にシャンソン優勝し歌手転身

③:高校は東京都立駒場高校放送クラブ所属

④:現在は城西国際大学客員教授も務める

加藤登紀子の学歴|東京大学合格までの軌跡と学生時代

  • 加藤登紀子の学歴一覧|幼少期から東京大学卒業まで
  • 東京都立駒場高校での活躍と吉永小百合との縁
  • 「合格はまぐれ」と語る東大受験の逸話と真相
  • 東大文学部西洋史学科で学んだ4年間と学問への姿勢
  • 在学中にシャンソンコンクール優勝した転換点
  • 東大時代の学生運動と1960年代の時代的背景

加藤登紀子の学歴一覧|幼少期から東京大学卒業まで

 
 
 
 
 
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ここでは加藤登紀子さんの基本プロフィールと学歴の全体像を整理します。

項目 内容
本名 加藤登紀子(かとうときこ)
生年月日 1943年12月27日
2026年04月06日現在の年齢 82歳
出生地 旧満州ハルビン(現・中国黒竜江省)
出身 京都府
出身高校 東京都立駒場高等学校
出身大学 東京大学文学部西洋史学科
職業 シンガーソングライター、作詞家、作曲家、女優
愛称 おときさん
現職 城西国際大学観光学部ウェルネスツーリズム学科 客員教授

加藤登紀子さんは1943年12月27日、旧満州ハルビンで生まれました。

ハルビンは現在の中国黒竜江省にある都市で、当時は日本が支配していた満州国の一部でした。

父親は南満州鉄道(満鉄)に勤務しており、その仕事の関係でハルビンに家族とともに赴任していたのです。

第二次世界大戦が終わると一家は日本に引き揚げ、その後は京都に落ち着きました。

京都という文化の薫り高い土地で育ったことは、後の加藤さんの芸術的感性に大きな影響を与えたと考えられますよね。

京都での幼少・少年時代を経た後、高校進学の際に東京へと転居しました。

そして東京都立駒場高等学校に入学し、その後東京大学文学部西洋史学科へと進学するという、並外れた学歴のルートをたどっていきます。

満州生まれという異色の出自と、京都育ちの文化的感性、そして東京での学問的鍛錬——この三つの経験が、加藤登紀子さんというアーティストの独自性を形づくったと言えるかもしれません。

満鉄と満州時代の背景

加藤さんの父親が勤めていた南満州鉄道(満鉄)は、当時の日本が中国東北部(満州)に敷設・経営した鉄道会社で、単なる交通機関にとどまらず、沿線地域の開発や行政にも深くかかわっていた巨大組織でした。

満鉄勤務の社員たちは現地の集合住宅に家族と暮らすことが多く、日本語コミュニティの中で生活していました。

加藤さんが生まれた1943年はすでに戦況が厳しくなりつつある時期で、終戦(1945年)からほどなく一家は内地への引き揚げを余儀なくされたわけです。

その後、父親が京都に勤め先を見つけ、一家は京都市内に定住しました。

こうして「満州生まれの京都っ子」という珍しいバックグラウンドが生まれたのです。

同じく日本の近現代史の激動期に幼少期を過ごした同世代のアーティストたちと比較しても、加藤さんの出自は際立ってユニークですよね。

東京都立駒場高校での活躍と吉永小百合との縁

加藤登紀子さんは東京都立駒場高等学校に進学しました。

項目 内容
学校名 東京都立駒場高等学校
所在地 東京都目黒区
特徴 都立屈指の進学校、文化系クラブが盛ん
クラブ活動 放送クラブ(アナウンス部長として活躍)
著名な後輩 吉永小百合(1年後輩)

東京都立駒場高等学校は目黒区に位置する都立の進学校で、当時から学力・文化活動ともに水準の高い学校として知られていました。

加藤さんは京都から東京へ転校してきた転入生という立場でしたが、持ち前の個性と表現力でクラスにすぐに溶け込んでいったようです。

当時のあだ名は「インファンシー」と呼ばれていたとも伝えられており、ちょっと個性的な雰囲気が漂っていたのかもしれませんね(笑)。

そして加藤さんが最も力を注いだのが放送クラブ(アナウンス部)での活動です。

放送クラブではアナウンス部長という要職を務め、後輩たちの指導にもあたっていました。

1年後輩に吉永小百合さんがいた

ここで特筆すべきなのが、加藤さんの1年後輩として吉永小百合さんが駒場高校に在籍していたという事実です。

吉永小百合さんといえば、日本映画史を代表する大女優であり、その清楚なイメージは今もなお多くの人に愛されています。

加藤登紀子さんはアナウンス部長として、その後輩にあたる吉永小百合さんを直接指導する立場にあったとのことで、同じ高校の先輩後輩という縁が今思い返すと非常に興味深いですよね。

当時の駒場高校の放送クラブは、スポーツ実況・校内放送・コンテストへの参加などを通じて、マイクの前で話すスキルを磨く場でした。

加藤さんがアナウンス部長として磨いた「声で伝える力」は、後のシャンソン・歌謡曲の世界でも確実に生きていったはずです。

高校時代にこれだけ充実した活動をしていた加藤さんが、次に挑んだのが東大受験という大きな壁でした。

「合格はまぐれ」と語る東大受験の逸話と真相

加藤登紀子さんの東大受験にまつわる逸話は、日本経済新聞でも取り上げられるほど有名です。

記事のタイトルは「ヤマ当たった東大受験『合格はまぐれ』」というもので、加藤さん本人が東大合格を「運によるもの」と謙遜するエピソードが詳述されています。

転校直後の学力テストで0点という洗礼

加藤さんは京都から東京の駒場高校に転校してきたとき、初めて受けた学力テストで0点という衝撃的な点数を取ってしまったといいます。

地方の進学校と東京の進学校では、出題傾向やカリキュラムの進み具合に差があることは珍しくありません。

当時の加藤さんにとっては、京都の学校での勉強方法と東京での受験勉強の流儀がまったく異なっていたため、最初は大きくつまずいてしまったようです。

しかし、そこで諦めなかったところが加藤さんの真骨頂です。

浪人の兄と一緒に猛勉強

0点という現実に直面した加藤さんは、浪人中だった兄とともに本格的な受験勉強に取り組むようになりました。

兄が浪人生として受験対策をしている環境に身を置くことで、加藤さんも自然と勉強への集中度が上がっていったのでしょう。

そして試験前には「ヤマをはる」——つまり出題されそうな範囲を絞り込んで集中的に準備する——という作戦に出たところ、それが見事に的中。

東京大学への合格を手にすることができたというわけです。

加藤さん本人は「ヤマが当たっただけ、合格はまぐれ」と語っていますが、何もない状態でヤマが当たったわけではありません。

ヤマをはるには出題傾向を読む分析力と、絞った分野を深く仕上げる集中力が必要です。

つまり、加藤さんの「まぐれ」発言は謙虚さの表れであり、実際には相当の実力と努力があったことがうかがえます。

東大合格という実績は、加藤さんがシンガーソングライターとして長年にわたり第一線で活躍し続けてきた知的基盤の礎になっていると言えるでしょう。

東大文学部西洋史学科で学んだ4年間と学問への姿勢

東京大学に合格した加藤登紀子さんが専攻として選んだのが、文学部の西洋史学科です。

文学部西洋史学科とはどのような学問か

東京大学文学部西洋史学科は、ヨーロッパや北米を中心とした西洋世界の歴史を古代から現代まで横断的に研究する学科です。

古代ギリシャ・ローマの社会・文化から、中世ヨーロッパの封建制度、近代の国民国家の成立、そして二十世紀の世界大戦に至るまで、幅広いテーマを史料と向き合いながら読み解いていきます。

外国語の能力が不可欠で、英語やフランス語はもちろん、ドイツ語・ラテン語なども習得が求められることが多い学科です。

加藤さんが後に「さくらんぼの実る頃」などフランス語のシャンソンを原語に近い感覚で歌いこなせた背景には、大学時代の語学学習も関係しているのかもしれません。

また、西洋史を学ぶということは、単に歴史的事実を暗記するのではなく、「なぜそうなったのか」「その時代の人々はどのような価値観を持っていたのか」を文脈の中で考える訓練でもあります。

東京大学での学びが音楽に与えた影響

加藤さんが東大時代に培った歴史的・批判的思考は、その後の作詞・作曲にも色濃く反映されていると多くの音楽評論家が指摘しています。

彼女の楽曲には単なる恋愛・日常の歌にとどまらず、時代や社会への鋭い視点が込められているものが多く、それは学問を通じて鍛えられた「時代を読む力」から来ているのでしょう。

1960年代前半の東大は、学問的な自由と同時に、激しい社会変革の波にも揺れていた時代でした。

そうした知的・社会的刺激の中で4年間を過ごした経験が、加藤さんというアーティストの土台を築いたと考えられます。

ここ、気になりますよね。東大卒という学歴が、歌手としての加藤登紀子さんにどう生きているのか——その答えは、歌詞の奥深さや社会への姿勢に自然と現れているように感じます。

在学中にシャンソンコンクール優勝した転換点

加藤登紀子さんの歌手人生を語るうえで欠かせないのが、東大在学中の1965年に起きた大きな転機です。

この年、加藤さんは第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに出場し、見事に優勝を果たしました。

シャンソンとはどのような音楽か

シャンソン(chanson)とはフランス語で「歌」を意味し、フランスの歌謡曲の総称として使われています。

詩的な歌詞と豊かな感情表現が特徴で、エディット・ピアフやジャック・ブレルといったアーティストが世界的に知られています。

日本では戦後から高度成長期にかけて、フランス文化への憧れとともにシャンソンが一定のファン層を獲得し、アマチュアシャンソンコンクールも各地で開催されるようになりました。

そのコンクールで、まだ東京大学の学生だった加藤さんが優勝を飾ったのです。

コンクール優勝からプロデビューへ

優勝という実績はそのまま音楽業界の目に留まることになり、翌1966年には正式に歌手デビューという流れに至りました。

デビュー曲は「誰も誰も知らない」で、同年には「赤い風船」が第8回日本レコード大賞新人賞を受賞という快進撃を見せます。

東大在学中にコンクール優勝→翌年即プロデビュー→デビュー年に新人賞受賞という怒濤の展開は、加藤さんの才能がいかに本物だったかを物語っています。

当時、「東大在学中の女子学生がシャンソンコンクールで優勝」というニュースは相当インパクトがあったはずです。

学業と音楽活動を両立させながら一流の実績を残した加藤さんの姿は、その後もずっと多くの人の記憶に残り続けています。

もしコンクールへの参加を思い立たなければ、もしかしたら全然違う人生を歩んでいたかもしれない——そう考えると、あの一度の挑戦がどれだけ大きな意味を持っていたか、改めて感じますよね。

東大時代の学生運動と1960年代の時代的背景

加藤登紀子さんが東京大学で学んだ1960年代前半は、日本社会全体が大きな変動のうねりの中にあった時代です。

1960年の安保闘争(日米安全保障条約の改定に反対する大規模な社会運動)は、学生や労働者が国会を包囲するほどの激しさを見せ、その余韻は60年代を通じて長く尾を引き続けました。

東大キャンパスを覆っていた時代の空気

東京大学は当時の学生運動の中心地の一つでした。

全学連(全日本学生自治会総連合)などの組織が活発に活動し、授業ボイコットや構内でのアジ演説、デモ行進などが日常的な光景として展開されていました。

政治や社会に対する問題意識が高い若者たちが全国から集まってくる環境の中で、加藤さんもこうした時代の空気を肌で感じながら学生生活を送っていたはずです。

こうした時代背景は、加藤さんが後に環境活動や平和活動に積極的に関わるようになった遠因の一つとも言えるかもしれません。

学生運動と夫・藤本敏夫さんとの出会い

また、加藤さんの人生を語るうえで切り離せない存在が、後に夫となる藤本敏夫さんです。

藤本さんは学生運動の活動家として当時の運動の最前線にいた人物で、加藤さんとの出会い・結婚も学生運動の時代と深く結びついています。

時代の熱気が二人の人生を交差させ、やがて一つの家族を作っていくことになったわけです。

1960年代という時代が加藤登紀子さんの人生に与えた影響は、学歴の面だけでなく、その後の生き方全体に刻み込まれていると言えるでしょう。

加藤登紀子の学歴が生んだ音楽と社会活動の歩み

  • 夫・藤本敏夫の学歴と学生運動への参加経緯
  • 歌手デビューから「知床旅情」「赤い風船」受賞まで
  • 「百万本のバラ」大ヒットとカーネギーホール公演
  • スタジオジブリ「紅の豚」声優と主題歌担当の経緯
  • フランス勲章・UNEP大使と城西国際大学客員教授

夫・藤本敏夫の学歴と学生運動への参加経緯

 
 
 
 
 
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加藤登紀子さんの夫である藤本敏夫さんは、1944年1月23日生まれで、加藤さんより1学年下の世代にあたります。

項目 内容
氏名 藤本敏夫(ふじもととしお)
生年月日 1944年1月23日
出身大学 同志社大学
学生運動 反帝全学連副委員長
逮捕 1972年4月(公務執行妨害等)
刑期 懲役3年8ヶ月
結婚 1972年(獄中結婚)
没年 2002年7月(肝臓ガン)

藤本敏夫さんの学歴と同志社大学時代

藤本さんは京都にある同志社大学に進学しました。

同志社大学はキリスト教主義に基づく教育理念を持つ名門私立大学で、関西の難関校の一つです。

在学中に藤本さんは学生運動に深く関わるようになり、やがて「反帝全学連(反帝国主義・全日本学生自治会総連合)」の副委員長という要職を担うまでになっていきました。

学生運動が激化するにつれ、藤本さんは警察当局から要注意人物としてマークされるようになります。

逮捕・収監から獄中結婚へ

そして1972年4月、藤本敏夫さんは公務執行妨害等の罪で逮捕されました。

裁判の結果、懲役3年8ヶ月という実刑判決が下り、藤本さんは収監されることになります。

そんな藤本さんに寄り添い続けたのが加藤登紀子さんで、1972年に刑務所内での結婚(獄中結婚)という異例の形で二人は夫婦の誓いを立てました。

当時、加藤さんのお腹にはすでに長女が宿っており、獄中結婚は大きな話題となりました。

三人の娘が誕生し、長女は1972年、次女のYaeさんは1975年、三女は1980年生まれです。

次女のYaeさんはその後歌手として活動し、NHKのみんなのうたで放送された「名もなき君へ」の作詞・作曲も手がけています。

出所後の農業活動と鴨川自然王国

刑期を終えた藤本さんは表舞台から身を引き、食と農をテーマにした活動に転身しました。

千葉県鴨川市に「鴨川自然王国」を設立し、有機農業・自然と共生する暮らしの実践・普及に尽力していきます。

1999年には農林水産省関東農政局の諮問委員にも就任し、農政の場でもその知見が評価されました。

しかし2002年7月、患っていた肝臓ガンのために藤本さんは亡くなられています。

学生運動という激動の時代を駆け抜け、農業という地道な活動に後半生を捧げた藤本さんの生き方は、加藤登紀子さんの音楽・活動にも大きな影響を与え続けました。

歌手デビューから「知床旅情」「赤い風船」受賞まで

東大在学中のシャンソンコンクール優勝という快挙をきっかけに、加藤登紀子さんは1966年に歌手として正式にデビューしました。

デビュー年から即座に日本レコード大賞の新人賞を受賞という驚異的なスタートを切り、その後も続々と栄誉を重ねていきます。

デビューから受賞歴の軌跡

作品・出来事 受賞・実績
1965年 東大在学中にシャンソンコンクール優勝 第2回日本アマチュアシャンソンコンクール優勝
1966年 「誰も誰も知らない」でデビュー 「赤い風船」で第8回日本レコード大賞新人賞
1969年 「ひとり寝の子守唄」 第11回日本レコード大賞歌唱賞
1971年 「知床旅情」(ミリオンセラー) 第13回日本レコード大賞歌唱賞(2度目)

1971年に大ヒットした「知床旅情」は、もともと俳優・森繁久彌さんが作詞・作曲した楽曲でした。

加藤さんが歌ったことでミリオンセラーとなり、北海道・知床半島の景勝を全国に知らしめる国民的ソングへと育ちました。

それまでデビューから5年間で日本レコード大賞を3度受賞するという快挙を成し遂げた加藤さんのキャリアは、東大卒という学歴とは全く異なる「音楽の才能」の本物ぶりを如実に示しています。

「東大を出て歌手になった変わり種」というキャッチーな見出しでメディアに取り上げられることも多かったようですが、その実績を見れば「変わり種」どころか、最前線のシンガーソングライターとして確固たる地位を築いていたことがわかります。

こうした初期の成功が、後の加藤登紀子さんの長く豊かな音楽人生の礎になっていったのです。

「百万本のバラ」大ヒットとカーネギーホール公演

1980年代に入ると、加藤登紀子さんの活躍はさらなる広がりを見せました。

なかでも1987年にリリースした「百万本のバラ」は大ヒットを記録し、加藤さんの代名詞的な一曲として今も多くの人に親しまれています。

「百万本のバラ」の背景と日本版の成功

「百万本のバラ」はもともとラトビアの楽曲「Māra dod ziedi(マーラが花を与えた)」を原曲とし、ロシア語版「Миллион алых роз(百万輪の薔薇)」として大ヒットした楽曲です。

その日本語版を加藤さんが歌い、独自の解釈と豊かな表現力で多くのリスナーの心をつかみました。

加藤さんはこの時期に楽曲提供の面でも才能を発揮し、中森明菜さんに「難破船」、石原裕次郎さんに「わが人生に悔いなし」といった提供曲も好セールスを記録しています。

自身の歌唱活動にとどまらず、他のアーティストのためにも良質な楽曲を書き続けるという、シンガーソングライターとしての全方位的な才能が光った時期でした。

1988年カーネギーホール公演という金字塔

1988年には、ニューヨークのカーネギー・ホール(小ホール)でのコンサートを実現させました。

カーネギー・ホールは世界で最も名高いクラシック音楽の殿堂の一つで、そこでのコンサート開催は日本人アーティストにとって一つの到達点を意味します。

東大文学部で西洋の歴史と文化を学び、フランスのシャンソンで歌手としての道を切り開いた加藤さんが、その集大成としてニューヨークの舞台に立ったというのは、何か必然的な流れのようにも感じられますよね。

この国際的な舞台での活躍は、加藤さんの音楽が日本国内にとどまらない普遍的な表現力を持っていたことの証明でもありました。

スタジオジブリ「紅の豚」声優と主題歌担当の経緯

加藤登紀子さんの多才ぶりを象徴するエピソードのひとつが、1992年のスタジオジブリ映画「紅の豚」への参加です。

宮崎駿監督の同作は、1920〜30年代のイタリア・アドリア海を舞台にした飛行艇乗りの物語で、大人向けの映画として高い評価を受けました。

「ジーナ」という歌手キャラクターの声優を担当

加藤さんは劇中に登場するホテルの女主人でシャンソン歌手の「ジーナ」という重要キャラクターの声を担当しました。

ジーナはアドリア海の美しい島に豪華なホテルを構える謎めいた女性で、飛行艇乗りたちの憧れの存在として描かれています。

シャンソン歌手という設定のキャラクターを、実際にシャンソンコンクールで優勝してキャリアをスタートさせた加藤さんが演じるというのは、これ以上ない適材適所の起用でした。

主題歌と加藤登紀子が選ばれた理由

劇中および主題歌として加藤さんが歌ったのは、「さくらんぼの実る頃(Le Temps des cerises)」と「時には昔の話を」の2曲です。

「さくらんぼの実る頃」は1866年に作られたフランスの古典シャンソンで、原語(フランス語)で歌われた劇中シーンは映画の雰囲気に完璧に溶け込む名場面として、今も多くのファンに語り継がれています。

エンディングテーマの「時には昔の話を」は加藤さん自身が作詞・作曲した楽曲で、青春への追憶と郷愁をテーマにした心に染みる名曲です。

この楽曲は映画の余韻を増幅する最高の締めくくりとなり、ジブリ映画の音楽史に刻まれる一曲として評価されています。

東大で西洋史を学び、フランス文化の素養をもつ加藤さんだからこそ、宮崎駿監督もこの参加を求めたのでしょう。学歴と芸術が見事に交差した瞬間と言えます。

フランス勲章・UNEP大使と城西国際大学客員教授

加藤登紀子さんの活動は音楽の枠にとどまらず、国際社会や環境問題においても多大な貢献を続けてきました。

フランス政府シュバリエ勲章の受章

1992年、加藤さんはフランス政府から芸術・文化における功績を称えてシュバリエ勲章(Ordre des Arts et des Lettres)を授与されました。

シュバリエ勲章はフランスの文化・芸術分野で傑出した貢献を果たした人物に贈られる栄誉で、外国人アーティストとしてこれを受けることは非常に稀な名誉です。

東大で西洋史を学び、シャンソンで歌手デビューし、フランス映画の雰囲気をまとうジブリ作品に参加した加藤さんがフランスから認められるというのは、ある種の必然とも言えます。

WWFジャパンとUNEP親善大使

環境活動への関心も早くから持ち続けた加藤さんは、1997年にWWFジャパン(世界自然保護基金日本委員会)の評議員に就任しました。

さらに2000年には、UNEP(国連環境計画)の親善大使に任命されています。

UNEPは国連の環境問題を担う主要機関で、その親善大使という立場は国際社会での環境意識の啓発において重要な役割を担うものです。

夫・藤本敏夫さんが晩年に有機農業と自然との共生に人生を捧げていたことと、加藤さんの環境活動への傾倒は、深いところで共鳴し合っていたのでしょう。

平和活動と音楽フェスティバルへの参加

加藤さんはその後も社会的な活動を精力的に続けています。

2006年にはFUJI ROCK FESTIVALに出演し、若手ミュージシャンとのコラボレーションを通じて世代を超えた音楽の架け橋を作りました。

2008年には九条世界会議(日本国憲法第九条の理念を国際的に発信する会議)に参加し、全体会のフィナーレを飾りました。

2009年にはソウル・フラワー・ユニオンらが主催した「PEACE MUSIC FESTA!」にも出演しています。

城西国際大学客員教授として後進を育てる

現在、加藤登紀子さんは城西国際大学観光学部ウェルネスツーリズム学科の客員教授を務めています。

「ウェルネスツーリズム」とは、旅行を通じた健康・癒し・自己成長を探求する分野で、加藤さんの環境・平和への想いや豊かな人生経験と親和性の高い分野です。

2026年04月06日現在も精力的に活動を続ける加藤さんが、客員教授として学生たちに向き合い続けているという事実は、東大文学部で培った知性と学問への姿勢が今なお生き続けていることを示しています。

「おときさん」の愛称で多くの人に慕われ続ける加藤登紀子さんの活動は、これからも続いていくことでしょう。

加藤登紀子の学歴と経歴|東大卒歌手の総まとめ

  • 1943年12月27日、旧満州ハルビンに生まれ、戦後は京都で育った
  • 父親は南満州鉄道(満鉄)勤務という異色のバックグラウンドを持つ
  • 東京都立駒場高等学校に進学し、放送クラブでアナウンス部長を務めた
  • 1年後輩に吉永小百合さんがおり、アナウンス部長として指導した
  • 転校直後の学力テストで0点という洗礼を受けたが、兄と猛勉強して東大を目指した
  • 東大受験は「ヤマが当たっただけでまぐれ」と本人は謙遜するが、実力と努力の賜物
  • 東京大学文学部西洋史学科を卒業した、日本でも稀な高学歴歌手
  • 東大在学中の1965年に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝
  • 1966年に歌手デビュー、同年「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞受賞
  • 夫・藤本敏夫さんは同志社大学出身、反帝全学連副委員長として学生運動に参加し獄中結婚
  • 1987年「百万本のバラ」が大ヒット、1988年にはカーネギーホール公演も実現
  • 1992年のスタジオジブリ「紅の豚」で声優とエンディング主題歌「時には昔の話を」を担当
  • 同1992年にフランス政府からシュバリエ勲章を受章し、国際的な評価を得た
  • 2000年にはUNEP(国連環境計画)親善大使に任命、環境活動でも世界に貢献
  • 現在は城西国際大学観光学部ウェルネスツーリズム学科の客員教授として後進を育てている