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干場義雅さんの学歴について、大学に進学したのかどうかを知りたい方は多いと思います。
干場さんは現在、ファッションディレクターとして活躍し、FORZA STYLEの編集長を務める業界屈指のカリスマ的存在です。
実は干場さんの最終学歴は高卒で、大学には進学していません。受験料として親からもらった20校分・約45万円を、洋服やデート代に使ってしまったという衝撃的なエピソードが本人の口から語られています。
それでも、BEAMSでのアルバイトから雑誌編集者の道を切り開き、LEONやOCEANSといった人気ファッション誌の創刊に携わってきました。
この記事では、干場義雅さんの学歴と独自のキャリアパスについて詳しく解説します。
①:干場義雅の最終学歴は高卒
②:受験料45万円を洋服とデートに使用
③:20歳でBEAMSバイトから編集者の道へ
④:LEON創刊に携わり37歳で独立
目次
干場義雅の学歴|高校と大学進学の真相
- 大学不進学の衝撃エピソード|受験料45万円の使い道
- 都立高校時代の成績とファッションへの目覚め
- 三代続くテーラー家系と干場義雅のプロフィール
大学不進学の衝撃エピソード|受験料45万円の使い道
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干場義雅さんの学歴を語る上で避けて通れないのが、大学不進学にまつわる衝撃的なエピソードです。
大学受験料20校分を洋服とデートに流用
高校生の干場さんは、「大学に行く」と親に告げて受験料を受け取りました。
しかし実際に受験したのはたった1校のみ。残りの20校分の受験料として受け取った約45万円は、洋服の購入やデート代として全額使ってしまったと、のちに本人が堂々と告白しています。
「本当に親には申し訳ないんですけど」と干場さん自身が振り返っており、当時の自分を「ダメ息子」と表現するほどの出来事でした。
ここ、衝撃的ですよね。ファッション好きが高じて、本来の目的とは全く異なる使い方をしてしまった干場さんの高校時代が垣間見えます。
唯一受験した1校にも不合格となった
唯一受験した1校も不合格となり、干場さんは大学進学を断念することになります。
当時は1989年から90年ごろで、ちょうどバブルが崩壊した時期でもありました。父親が持っていた株が暴落し、家庭の経済状況も一気に苦しくなっていたといいます。
「割と普通の生活をしていたんですけど、生活もすごく大変になりましたね」と干場さんは振り返っています。そんな状況の中でもファッションへの情熱は冷めることなく、洋服が欲しい、でもお金はない、という状況が干場さんの人生の大きな分岐点になっていきました。
「罰が当たったと思う」と干場さん本人が語っていますが、この挫折がその後のキャリアを形成する原動力になったことは間違いありません。
学歴の壁と向き合った干場義雅の選択
こうして干場義雅さんの最終学歴は高校卒業(高卒)となりました。
干場さん自身も「メディアに入るにはどうしても学力が求められるので、大学に出てなかったというのはまず一つ(の壁)だった」と語っています。
出版社への就職を目指す際にも、「出版社って頭も良くなくては入れませんし、そんな中で大学も行ってないのに勝ち上がっていけるのか」という厳しい言葉を浴びせられたといいます。
それでも干場さんは「洋服のことは多分、恐らく誰にも負けないです」と言い切り、土下座覚悟で出版社への入社を直談判したというのですから、その行動力と情熱は並大抵のものではありません。
学歴という壁を情熱と行動力で乗り越えた干場さんのエピソードは、学歴コンプレックスを抱える多くの人に勇気を与えてくれます。
都立高校時代の成績とファッションへの目覚め
大学受験に失敗した干場さんですが、高校時代の姿を振り返ると、意外な一面が見えてきます。
滑り止めの都立高校に進学
干場義雅さんが進学したのは都立の高校でした。
本人いわく「滑り止めの高校で、あまり行きたい高校ではなかった」とのこと。本命の高校には入れず、第二志望以下の学校に通うことになったという事実は、本人にとって複雑な思いをもたらしたようです。
それでも干場さんはもともと地頭が良く、「これまで割と勉強はしていた方なので、頭は良くないんですけど勉強しなくても学年で一番とかだったんです」と語っています。
本来の実力を発揮すれば成績はトップクラスだったにもかかわらず、自分の環境にあぐらをかいてしまったといいます。「その環境にあぐらをかいていたら全然勉強しなくなっちゃって」という言葉が印象的です。
中学の同級生との出会いがファッション開眼のきっかけ
干場さんがファッションに目覚めたきっかけは、中学時代の同級生との関係にありました。
「宮下くん」と呼ばれる中学の同級生がいて、後にパリコレのデザイナーとしても名を馳せる「ザソロイスト」の宮下顕司さん(NUMBERNINEも手がけた)がその人物です。
「彼とすごく仲良くて洋服がすごく好きになって、ファッションに目覚めていきましたね」と干場さんは語っています。後に日本を代表するデザイナーと同じ中学に通い、同じ時代にファッションへの情熱を育んでいたというのは、何とも興味深いエピソードです。
洋服が欲しい、でも家庭の経済状況は苦しい。遊びとファッションのためにはバイトをしなければならない。そんな葛藤が、高校時代の干場さんを動かす原動力になっていたのかもしれません。
勉強よりもファッションと趣味を選んだ高校時代
成績は良かったものの、干場さんは高校時代に勉強から離れ、自分の趣味や好きなことにどんどん没頭していったといいます。
実家がテーラーという環境も、ファッションへの関心を高める土台になっていたことは確かです。幼い頃から「服」が日常的に身近にある環境で育ってきた干場さんにとって、ファッションへの傾倒はある意味必然だったともいえるでしょう。
高校時代に積み上げたファッションへの深い知識と感覚は、その後の編集者・ファッションディレクターとしての干場さんを支える基盤になっていきます。
勉強しなかったことを後悔しつつも、ファッションに費やした時間が自分のキャリアの核になったという逆説的な事実は、「好きなことに没頭することの力」を示してくれています。
三代続くテーラー家系と干場義雅のプロフィール
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ここでは干場義雅さんの基本的なプロフィールと、その生い立ちを整理してみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 干場義雅 |
| 読み方 | ほしばよしまさ |
| 生年月日 | 1973年1月11日 |
| 2026年04月06日現在の年齢 | 53歳 |
| 出身地 | 東京都 |
| 血液型 | O型 |
| 最終学歴 | 高校卒業(高卒) |
| 職業 | ファッションディレクター・編集者 |
| 会社 | 株式会社スタイルクリニック |
| 家業 | 三代続くテーラー(4代目になる予定だった) |
干場義雅さんは1973年1月11日、東京都生まれです。
テーラー家系という特別な生い立ち
干場さんの実家は「三代続くテーラー」です。
本来であれば干場さんが4代目を継ぐはずでしたが、父親からの言葉で継がないことになったといいます。その背景にあったのがバブル崩壊です。「父が持っていた株が暴落したことで、継ぐのをやめることになった」と干場さんは語っています。
テーラーの家で育ったことは、干場さんのファッションへの感覚を育む上で大きな影響を与えたことでしょう。幼い頃から仕立て服に囲まれ、素材や縫製へのこだわりを自然に学んできた環境は、後のキャリアに確実に生きています。
父親との別れと「時間の有限性」への気づき
干場さんは過去のインタビューで、父親の死について語っています。
「空手も5段で、という強い父親だったのが急に胃癌と共に30、40キロぐらいの体重になり弱くなって、それを目の当たりで見た時に、あんな強かった父親がこんなに細く弱くなって死ぬんだと」と。
この経験から干場さんは「時間というものが有限である」ということを強く意識するようになり、「やりたいなと思ったら今やろう」という行動原理が生まれたといいます。テーラーの家系に生まれ、ファッションへの情熱を持ち、父親の死から人生の有限性を学んだ。そうした積み重ねが現在の干場義雅さんを形成しています。
生い立ちや家族背景を知ると、干場さんの学歴や生き方がより立体的に見えてきますよね。
干場義雅の学歴が示す独学のキャリア
- BEAMSから雑誌編集者へ|学歴なしで掴んだ突破口
- LEON・OCEANS・エスクァイアでの実績と成長
- 37歳独立からFORZA STYLE編集長就任まで
BEAMSから雑誌編集者へ|学歴なしで掴んだ突破口
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高校卒業後、大学に進学できなかった干場さんが最初に選んだ道は、ファッションの現場への飛び込みでした。
BEAMSアルバイトからスタートした社会人生活
干場さんは大学不進学が決まり、「就職するかバイトをしないと家にはいられない」という状況になりました。
洋服が好きだった干場さんは、友人の知り合いのつながりでBEAMSでアルバイトを始めることになります。これがファッションの仕事に関わった最初のきっかけでした。
BEAMSは現在も日本を代表するセレクトショップですが、当時もファッション業界では名の知れた存在でした。朝から晩までお店に立って服を売るという仕事は、服好きの干場さんにとって充実した日々だったといいます。
「BEAMSの先輩たちにはすごくお世話になっていて、今でも色んなことを教えてもらったりもする」と感謝の言葉を述べており、この時期の経験がその後の干場さんのファッションへの理解を深めたことは間違いありません。
POPEYE誌のスナップがきっかけで編集の世界へ
BEAMSでアルバイトをしていた干場さんに、人生を変える出来事が起きます。
中学時代の同級生・宮下くんから「雑誌のスナップをやってるみたいだから一緒に表参道へ行かないか」と誘われ、ついて行ったところ、『POPEYE』のファッションスナップの現場に遭遇しました。
「君たち凄くお洒落だよね、ちょっと雑誌出る?」と声をかけられ、そのまま読者モデルとして誌面に登場することになり、その後も驚くほど多くのページに出るようになったといいます。
この経験を通じて、スタイリスト・カメラマン・ヘアメイク・そして編集者という職業の存在を知っていった干場さん。「頭をフル回転させて、ファッションということを、モデルを使ったり、スタイリストに洋服を借りてきてもらったり、カメラマンにこういう世界観で撮りましょうとかで、全部オーガナイズしている編集者」という職業に強い憧れを抱くようになりました。
土下座の直談判で出版社へ潜り込む
編集者になることを決意した干場さんは、知り合いの紹介をたどって出版社への入社を直談判します。
「何ができるんだ」と問われた干場さんは「洋服のことは多分、恐らく誰にも負けないです」と言い切りました。口から出まかせとも語っていますが、その言葉には確かな自信があったはずです。最終的には「何かお前ちょっと面白いから3ヶ月くらい見習いで見てやるよ」という言葉をもらい、当時20歳の干場さんは出版業界に潜り込むことに成功しました。
学歴という武器がない中で、「好き」という情熱と行動力だけで扉をこじ開けた干場さんの姿勢は、今でも多くの人に語り継がれています。
LEON・OCEANS・エスクァイアでの実績と成長
出版社に入社した干場さんは、その後どのようにキャリアを積み上げていったのでしょうか。
23歳でエスクァイアマガジンへ移籍
最初の出版社での仕事から数年後、干場さんは23歳のときに別の雑誌社へ移ります。
それがアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリアなど各国で出版されていたインターナショナルマガジン『エスクァイアマガジン』でした。
入社早々、「スイスに行け、一人で」という無茶ぶりを受けた干場さん。「Googleもない時代で、喋りも全然できないのにGoogle翻訳もないし、Google Mapもないし」という状況で、一人で海外出張をこなさなければなりませんでした。
「帰ってきても、今度『ミラノへ行け』って言われて。ミラノ!?イタリア語!?みたいな」と苦笑しつつも、その経験が干場さんのグローバルな視野を育てていきます。ファッションショーが朝9時から夜6時まで1時間おきにびっしりと入っている中、地図も読めない状態でミラノ中の会場を駆け回ったというエピソードは、干場さんの逞しさを物語っています。
LEONおよびOCEANSの創刊に携わる
エスクァイアでの経験を積んだ後、干場さんは日本のファッション界を代表する雑誌の創刊に関わっていきます。
「LEON」や「OCEANS」といった人気メンズファッション誌の創刊に携わり、ファッション誌の世界で確固たる地位を築いていきました。
LEONは「ちょいモテオヤジ」というコンセプトで一世を風靡した雑誌であり、OCEANSも大人の男性向けライフスタイル誌として高い人気を誇ります。いずれも干場さんの感性と編集力が発揮された媒体です。
大学に行かずに独学で編集の道を歩んできた干場さんが、日本を代表するメンズファッション誌の創刊を複数手がけるに至ったという事実は、学歴よりも実力と情熱が何よりも大切であることを証明しています。
編集者時代に培った「人を喜ばせる」哲学
干場さんは仕事の核心として「人に喜んでもらうこと」を挙げています。
「かっこいいページを作りましたは、全然OKなんですけど、やっぱり反響が出るページ作りができたとき、さらにそれを買った人が『あのページを見て買ってすごく良かったよ』とかって言われたりすることがすごく喜びになる」と語っています。
編集者として多くの雑誌に携わる中で磨かれた「読者の喜びを最大化する」という視点は、干場さんの学歴には一切関係なく、現場での実体験から生まれたものでした。
37歳独立からFORZA STYLE編集長就任まで
編集者として数々の実績を積んだ干場さんは、37歳のときに大きな決断をします。
株式会社スタイルクリニックを設立し独立
2010年、干場さんは37歳でファッションディレクターとして独立しました。
株式会社スタイルクリニックを設立し、代表取締役に就任しています。
「最初は裸一貫みたいな感じでしたね。一寸法師状態ですよね。本当にちっちゃいお椀で箸を持って漕ぐ感じで」と独立当初の状況を語っていますが、その後は「来た仕事はほとんど断らずに全部やった」という姿勢で仕事を積み重ねていきます。
原稿執筆・トークショー・テレビ出演・ラジオ・ブランドプロデュースと、幅広い分野で活躍し、「何でも来い」という状態になっていったといいます。
チャンスを逃さない「桃太郎の桃」哲学
干場さんが独立後に大切にしてきたのが、チャンスを逃さないという姿勢です。
「目の前には必ずいろんなチャンスがあるんですけど、そのたった1個の桃が流れてきた時に掴めるかどうか。アンテナを張るのはすごく大事かなと思いますね」という言葉は、干場さんの行動原理を端的に表しています。
学歴という後ろ盾がない分、チャンスが来たときに全力で掴みに行く姿勢が干場さんのキャリアを支えてきたといえるでしょう。「ワンチャンスはワンタイムなんで、もう来たらバンって掴む」という言葉は、学歴のない状況から這い上がってきた人間だからこそ持てるリアルな実感です。
FORZA STYLE編集長として業界のカリスマへ
現在の干場義雅さんは、講談社のウェブメディア「FORZA STYLE」の編集長を務めています。
テレビやラジオ、雑誌など多岐にわたるメディアに出演し、「男の美学」を体現するカリスマとして絶大な支持を集めています。イタリア発のラグジュアリーブランドとのコラボ商品を手がけるなど、プロデュース業でも精力的に活動中です。
高卒という学歴を持ちながら、情熱と行動力だけで業界のトップに立った干場義雅さんの姿は、まさに「学歴よりも生き様」を体現しているといえます。「常に上を目指す気持ちと、時間が有限であるということへの気づきが大切」という干場さんの言葉は、今も多くの人の背中を押し続けています。
干場義雅の学歴とキャリアの総まとめポイント
- 干場義雅の最終学歴は高卒で、大学には進学していない
- 進学した都立高校は滑り止めで、本命校には不合格だった
- 高校時代は勉強しなくても学年トップクラスの成績を誇った
- 受験料20校分・約45万円を洋服とデート代として全額使用した
- 実際に受験したのは1校のみで不合格となり、大学進学を断念
- 家業は三代続くテーラーで、4代目になるはずだった
- バブル崩壊による家庭の経済的苦境が人生の転機になった
- 20歳でBEAMSにアルバイト入社し、ファッション業界の仕事を始めた
- 雑誌『POPEYE』のスナップモデルをきっかけに編集者を志す
- 出版社への入社は土下座の直談判で勝ち取った
- エスクァイアマガジンに移籍後、海外出張で語学・国際経験を積んだ
- 人気メンズ誌『LEON』『OCEANS』などの創刊に携わった
- 37歳で株式会社スタイルクリニックを設立し独立した
- 現在はFORZA STYLE(講談社)の編集長を務めている
- 学歴ではなく情熱・行動力・人を喜ばせる姿勢でキャリアを切り開いた

