※本記事の扱い:内容はインターネット上の報道・番組・SNS等の公開情報の要約・整理です。個人への中傷や断定的な評価を目的としません。正確な事実関係は各公式発表や一次情報でご確認ください。
※出典・参考にした情報の種類:テレビ番組の発言要約、SNS投稿の引用、ウェブ上の二次報道などです。リンクや画像は当該サービス・媒体のものであり、本サイトが一次情報の正確性を保証するものではありません。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。
長島昭久さんの学歴や経歴について知りたいと感じている方は多いのではないでしょうか。
長島昭久さんは、衆議院議員として東京30区(府中市・多摩市・稲城市)を地盤に活躍する自民党政治家で、9回の当選を誇るベテランです。
幼稚舎(小学校)から大学院まで実に23年間を慶應義塾で過ごし、その後米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)で国際安全保障を学んだという異色の経歴を持っています。
防衛大臣政務官・防衛副大臣・内閣総理大臣補佐官などの要職を歴任し、安全保障政策の分野で特に高い専門性を発揮してきた政治家です。
この記事では、長島昭久さんの学歴・出身校・学生時代のエピソードと政治家としての経歴を詳しくご紹介します。
①:慶應義塾幼稚舎(小学校)から大学院まで23年間の一貫教育を受けた生粋の慶應ボーイ
②:米国ジョンズ・ホプキンス大学大学院(SAIS)で安全保障の修士号を取得した国際派
③:高校時代には仲間とともに日本初のラクロス同好会を創設した行動力の持ち主
④:衆議院議員9回当選で防衛副大臣・首相補佐官を歴任した安全保障のプロ
長島昭久の学歴|慶應23年・ジョンズホプキンス大学院まで
- 長島昭久のプロフィールと学歴一覧
- 慶應義塾幼稚舎(小学校)入学の背景
- 慶應義塾高校時代:ラクロス同好会創設のエピソード
- 慶應義塾大学:法学部から政治学科への学士入学
- 大学院:慶應大学院と米ジョンズホプキンス大学院
- 石原伸晃秘書としての政界デビュー
長島昭久のプロフィールと学歴一覧
まず長島昭久さんの基本情報と学歴を一覧で確認しましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 長島 昭久(ながしま あきひさ) |
| 生年月日 | 1962年2月17日 |
| 2026年07月11日現在の年齢 | 64歳 |
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
| 選挙区 | 東京都第30区(府中市・多摩市・稲城市) |
| 政党 | 自由民主党 |
| 当選回数 | 衆議院9回 |
| 座右の銘 | 至誠天に通ず |
次に学歴の一覧を確認しましょう。
| 学歴 | 学校名 | 偏差値・補足 |
|---|---|---|
| 小学校 | 慶應義塾幼稚舎 | 難関私立(試験選考) |
| 中学校 | 慶應義塾普通部 | 偏差値約66(内部進学) |
| 高校 | 慶應義塾高校 | 偏差値約73(内部進学) |
| 大学(1回目) | 慶應義塾大学法学部法律学科 | 偏差値65〜70 |
| 大学(2回目・学士入学) | 慶應義塾大学法学部政治学科 | 学士入学 |
| 大学院① | 慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程 | 修士(憲法学) |
| 大学院② | 米国ジョンズ・ホプキンス大学SAIS修士課程 | 修士(国際安全保障) |
幼稚舎(小学校)から大学院まで23年間の慶應一貫教育という恵まれた環境で育ちながら、30代で渡米してジョンズホプキンス大学でさらに学んだ意欲的な経歴の持ち主です。
父親の強い意向で慶應義塾幼稚舎へ
長島昭久さんは神奈川県横浜市生まれですが、「平均的なサラリーマン家庭に生まれた」と自ら語っています。
慶應義塾幼稚舎への入学は「父の強い意向」によるものでした。
小学校から「格差」を感じながらも慶應の環境を生き抜いた経験が、後の政治家としての視点・感覚に大きな影響を与えたと語っています。
スポーツに没頭した少年時代
長島昭久さんの趣味にはゴルフ・水泳・水彩画などがありますが、少年時代はスポーツに積極的に取り組んでいました。
少年野球に始まり、剣道・ラグビー・水泳・スキー・ヨットなど多彩なスポーツに没頭した少年時代を過ごしています。
文武両道の精神を慶應時代に培ったことが、後の政治活動における体力・精神力の基盤となっています。
慶應義塾幼稚舎(小学校)入学の背景
長島昭久さんが語る幼稚舎時代の思い出には、少年期の「格差」体験が色濃く残っています。
慶應義塾幼稚舎とはどんな学校か
慶應義塾幼稚舎は1874年(明治7年)創立の名門私立小学校で、慶應義塾一貫教育の最初の段階として位置づけられています。
入学試験は非常に競争率が高く、例年10倍以上の倍率で選考が行われることで知られています。
幼稚舎を卒業すると原則として慶應義塾普通部(中学)、高校、大学と内部進学できる仕組みです。
「格差」を感じながら育った少年時代
長島昭久さんは自身のエッセイで「平均的なサラリーマン家庭に生まれましたが、父の強い意向で慶應義塾幼稚舎に入学し、幼心に『格差』を感じながら育ちました」と語っています。
裕福な家庭の子弟が多い幼稚舎で、経済的な格差を肌で感じながらも慶應という環境に溶け込んでいった経験は、後の政治家としての社会問題への感度を高めたともいえます。
幼稚舎卒業後の進学ルート
幼稚舎(小学校)を卒業した長島昭久さんは、慶應義塾普通部(中学校)へと内部進学しています。
慶應義塾普通部の偏差値は約66で、外部受験でも難関校に分類されます。
長島昭久さんは内部進学のためこの受験は経験していませんが、慶應の一貫した教育環境で勉学・スポーツに励んだことが語られています。
慶應義塾高校時代:ラクロス同好会創設のエピソード
長島昭久さんの高校時代を語る上で欠かせないのが、日本初のラクロス同好会創設というエピソードです。
慶應義塾高校の概要
慶應義塾高校は神奈川県横浜市に所在する私立共学校で、偏差値は約73〜75の難関校として知られています。
内部進学者と外部受験者が混在しており、外部からの入学は非常に難しい学校です。
スポーツ・文化活動ともに盛んで、応援文化も根強く残っています。
日本初のラクロス同好会創設
長島昭久さんは高校生活最後の昭和54年(1979年)に、仲間とともに「日本で初めて」のラクロス同好会を創設したと語っています。
当時の日本にはまだラクロスという競技がほとんど知られておらず、長島さんたちの同好会創設は日本のラクロス史の先駆けとなるものでした。
このエピソードは「新しいことに挑戦する」長島昭久さんのチャレンジ精神を象徴するものとして、本人も大切にしているエピソードのひとつです。
政治家を志したきっかけ:高校3年生の激動の年
高校生活最後の1979年は国際政治が激動した年でした。
2月のイラン革命、中越戦争、12月のソ連のアフガニスタン侵攻と、次々と大事件が起きた年に、長島昭久さんは「党内の派閥抗争に明け暮れる日本の政治家たち」の姿を目にして憤りを感じたと語っています。
「日本にも国際政治をリードできる政治家が必要だ」という確信を持ち、この時から本気で政治家を志すようになったと自ら述べています。
慶應応援指導部への参加
長島昭久さんは大学時代に慶應義塾の「応援指導部」に所属しています。
応援指導部は厳格な規律と猛練習で知られる組織で、学ランを着て早慶戦などの大一番を指揮します。
「他の友人たちが開放的な青春を謳歌する中、私たちはビシっと学ランを着て厳しい規律と練習漬けの日々を送った」と本人が振り返っており、この経験が精神的な強さと組織を率いるリーダーシップの素地となっています。
慶應義塾大学:法学部から政治学科への学士入学
大学では法学部を2度経験するという、珍しい経歴の持ち主でもあります。
慶應義塾大学法学部法律学科への入学
高校から内部進学で慶應義塾大学法学部法律学科に進学した長島昭久さんは、大学時代に応援指導部に所属します。
4年時にはリーダー長として早慶戦の大応援団を指揮し、「リーダーシップとは何か」を実感したと語っています。
大学生活最後に向けて政治家になるための道を模索し始めた長島さんは、法律学科から政治学科への学士入学を決意します。
法学部政治学科への学士入学という決断
「国会議員になろうというのだから、国家の基本法である憲法を徹底的に学ぶべし!」という考えから、長島昭久さんは法律学科を卒業した後、あえて政治学科に学士入学しています。
同じ慶應義塾大学内での別学科への再入学という珍しい選択で、政治家としての学術的基盤を意識的に積み上げた姿勢が見て取れます。
応援指導部での4年間とリーダーシップ論
大学時代の応援指導部での経験は、長島昭久さんの人格形成に大きな影響を与えています。
「肉体と精神力の限界に挑み続けるとともに『縁の下の力持ち』に徹したことは貴重な経験でした」と語っており、縁の下から組織を支える重要性を学んだようです。
リーダー長として早慶戦の大応援団を指揮した経験は、後に衆議院議員として国防委員会・安保委員会を率いる姿に通じるものがあります。
慶應法学部の著名な同期・先輩・後輩
慶應義塾大学は政界・財界・メディア界に多くの著名人を輩出しています。
長島昭久さんの時代の慶應では、後に衆議院議員となる伊藤達也さん(同期)が在籍しており、長島さんが渡米を決意した際のエピソードにも登場します。
また石原伸晃さんの選挙応援をきっかけに政界に足を踏み入れることになった経緯からも、慶應の人的ネットワークが長島さんのキャリアに深く関わっていたことがわかります。
大学院:慶應大学院と米ジョンズホプキンス大学院
長島昭久さんの学歴の中でも特に際立つのが、慶應義塾大学院と米国ジョンズ・ホプキンス大学院での二重の修士号取得です。
慶應義塾大学大学院法学研究科での学び
政治学科に学士入学した後、慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程に進学した長島昭久さんは、憲法学を専攻して修士号を取得しています。
大学院では著名な教授陣から「憲法や国際法のなんたるか」を叩き込まれたと語っており、TA(ティーチング・アシスタント)として後輩指導にも力を入れました。
「合格発表の瞬間には思わず涙が込み上げた」という言葉からも、大学院受験がいかに難しい挑戦だったかが伝わります。
大学院在学中の石原伸晃選挙応援
大学院博士課程在学中の1990年、旧友・石原良純さんに誘われて兄の石原伸晃さんの初めての選挙応援をすることになります。
石原伸晃さんの当選後、長島昭久さんは石原代議士の公設第一秘書に就任します。
「政治のリアル」を秘書として体験したことが、後の渡米決意につながる重要な分岐点となりました。
31歳での裸一貫米国留学という決断
1993年、31歳の長島昭久さんは「このまま石原秘書として政治の日常に埋没してもいいものか」という危機感から、米国留学を決意します。
「私も私の実家も決して裕福ではなく、留学費用を工面する余裕はどこの袖をふってもなかった」という状況の中、結婚してわずか5ヶ月の妻が仕送りをしてくれたという感動的なエピソードも語られています。
断腸の思いで渡米した31歳の決断が、後の国際安全保障の専門家・政治家としての長島昭久さんの礎となりました。
ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)
1993年から1997年にかけて留学した先が、米国ジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究大学院(SAIS:School of Advanced International Studies)です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 大学名 | ジョンズ・ホプキンス大学 |
| 研究科名 | 高等国際問題研究大学院(SAIS) |
| 場所 | ワシントンD.C.(米国) |
| 修了年 | 1997年 |
| 専攻 | アジア安全保障研究 |
SAISは外交・国際安全保障の分野で世界最高峰の大学院のひとつとして知られており、卒業生は米国務省・CIA・外交機関などに多く就職するエリート養成機関です。
石原伸晃秘書としての政界デビュー
長島昭久さんが本格的に政界に足を踏み入れたのは、石原伸晃代議士の公設第一秘書に就任したことがきっかけです。
石原伸晃初選挙での応援活動
1990年(平成2年)、大学院博士課程在学中の長島昭久さんは、旧友・石原良純さんから兄・石原伸晃さんの選挙応援を頼まれます。
「親父(石原慎太郎)の七光り、叔父さん(石原裕次郎)の十四光り」とマスコミから揶揄された石原伸晃さんが、世襲ではなく別選挙区でゼロから挑戦する姿勢に心を動かされました。
石原伸晃さんは見事に当選し、長島昭久さんは公設第一秘書に就任することになります。
秘書時代に感じた「政治のリアル」
石原代議士の公設第一秘書として、長島昭久さんは地元責任者として後援会づくりなどを担当します。
しかし一生懸命働けば働くほど、「政治の可能性とともに、その複雑怪奇な力学と、社会を変えるのに必要な力の巨大さを同時に痛感してしまった」と語っています。
秘書として政治の現場を肌で感じた経験が、渡米して力をつけ直す決意へとつながりました。
伊藤達也さんの誘いと渡米決断
高校からの友人・伊藤達也さん(現衆議院議員)から「一緒に国政選挙に出ないか」と誘われた長島昭久さんは、断腸の思いでこれを断ります。
当時は日本新党ブームで政界への参入チャンスでしたが、「今すぐ選挙に打って出るところまで機が熟しているようには思えない」という自己分析から、渡米を選択しました。
この決断が後の「国際政治をリードできる政治家」としての長島昭久さんを作り上げる転機となっています。
長島昭久の経歴と現在|衆議院9回当選・安全保障の専門家として
- 米国外交問題評議会研究員から衆議院議員へ
- 防衛大臣政務官・防衛副大臣の要職
- 内閣総理大臣補佐官としての外交安保担当
- 民主党から希望の党・自民党入りという政治遍歴
- 慶應義塾が与えた「福沢精神」という原点
- 長島昭久の学歴が示す政治家としての本質
米国外交問題評議会研究員から衆議院議員へ
ジョンズ・ホプキンス大学SAISを修了した長島昭久さんは、米国外交問題評議会(CFR)でアジア安全保障を研究するポジションに就きます。
米国外交問題評議会(CFR)での研究
1997年にSAISを修了後、長島昭久さんは米国外交問題評議会(Council on Foreign Relations:CFR)の研究員に就任しています。
CFRはアメリカの外交政策に最大の影響力を持つシンクタンクのひとつで、歴代の米国大統領・国務長官・安全保障担当者を多数輩出してきた名門機関です。
アジア安全保障研究員として在籍したことで、米国の外交・安全保障政策の最前線を知る経験を得ました。
2003年衆院選での初当選
帰国後は東京財団の主任研究員なども経て、2003年11月の衆院選で東京30区から初当選を果たします。
31歳での渡米決意から10年以上の準備期間を経て、ついに念願の衆議院議員となった瞬間でした。
初当選時は民主党の候補として当選し、その後も連続当選を重ねていきます。
防衛大臣政務官・防衛副大臣の要職
衆議院議員としての実績を積み上げた長島昭久さんは、安全保障分野の要職を次々と歴任します。
防衛大臣政務官(鳩山内閣・菅内閣)
2009年9月、鳩山内閣において防衛大臣政務官に就任します。
2010年6月には菅内閣でも防衛大臣政務官に再任され、安全保障分野での専門知識を実際の政策立案に活かした時期です。
防衛副大臣(野田第3次改造内閣)
2012年10月に野田第3次改造内閣の防衛副大臣に就任します。
防衛副大臣は防衛省の政務ナンバー2のポジションであり、長島昭久さんの安全保障専門家としての地位を決定づけた役職です。
内閣総理大臣補佐官(外交・安全保障担当)
2011年9月には野田内閣で内閣総理大臣補佐官(外交及び安全保障担当)に就任しています。
首相補佐官は首相の政策立案・調整を直接支える最側近のポジションであり、長島昭久さんが安全保障分野での政策立案の中心人物であったことを示しています。
民主党から希望の党・自民党入りという政治遍歴
長島昭久さんの政治遍歴は、民主党・無所属・希望の党・自民党という複雑な歩みをたどっています。
民主党での活動と離党
長島昭久さんは民主党の議員として当選を重ねてきましたが、安全保障政策をめぐる党内の対立から2017年に民主党(民進党)を離党しています。
安全保障政策において現実主義的な立場をとる長島さんと党の方針の間に生じたずれが、離党の大きな要因とされています。
希望の党での活動
2017年11月には希望の党の政調会長に就任し、同党での活動を続けます。
希望の党解散後も安全保障・外交政策の専門家として活動を続け、その後自民党への入党を果たしています。
自民党入りと現在の活動
自民党入りを果たした長島昭久さんは、現在も東京30区の衆議院議員として活躍しています。
衆議院拉致問題特別委員長・東日本大震災復興特別委員長などの要職を歴任し、幅広い政策分野での活動を続けています。
慶應義塾が与えた「福沢精神」という原点
長島昭久さんが政治家としての原点として挙げるのが、慶應義塾で学んだ「福沢精神」です。
「独立自尊」という慶應の精神
慶應義塾の創設者・福沢諭吉の箴言「独立自尊」——他に寄りすがることなく、自尊は他尊(他人を尊重すること)に通ず——という精神が、長島昭久さんの政治哲学の基盤となっています。
「この精神は、自身の原点であるだけでなく、国家の理念にも通ずる」と長島さんは語っており、23年間の慶應教育が政治家としての思想的基盤を作り上げたことがわかります。
幼稚舎から23年間の一貫教育の意義
小学校から大学院まで23年間を慶應で過ごした経験は、長島昭久さんにとって友人・師弟・同窓という人的ネットワークの面でも大きな財産となっています。
政界では「慶應閥」と呼ばれる同窓生ネットワークが機能することも多く、慶應という共通のバックグラウンドが政界での活動を支える場面もあります。
「応援指導部」の経験が生んだリーダーシップ
大学時代の応援指導部でのリーダーとしての経験は、国会での委員会審議・党内調整・選挙活動など政治家としての様々な場面に活きています。
「リーダーシップとはなんたるか」を実感した応援指導部での4年間は、長島昭久さんの人格の核心にある原体験のひとつです。
慶應義塾大学教育と安全保障への関わり
政治家活動と並行して、長島昭久さんは慶應義塾大学での教育活動にも関わっています。
慶應義塾大学法学部講師として
2010年9月には慶應義塾大学法学部の講師に就任しており、母校で安全保障に関する授業を担当しました。
政治の実務経験と学術的知識を併せ持つ長島さんの授業は、実践的な安全保障・外交の知識を伝えるものとして学生に評価されていたといいます。
中央大学大学院でのキャリア
中央大学大学院公共政策研究科の客員教授も務めており、幅広い大学での教育活動を続けています。
政治家でありながら研究者・教育者としての顔も持つ長島昭久さんの多面的なキャリアは、学術と政治実務の両輪で安全保障政策を牽引してきたことを示しています。
長島昭久の学歴が示す政治家としての本質
長島昭久さんの学歴と経歴を総合して見えてくる、政治家としての本質について考えます。
「準備を整えてから挑む」という哲学
伊藤達也さんの誘いを断って渡米した31歳の決断は、「機が熟するまで待つ」という長島昭久さんの哲学を体現しています。
チャンスが目の前にあっても、自分の準備が整っていなければ踏み出さない——この姿勢が、慶應での23年・米国での4年という長い学習期間に表れています。
国際的な視野と安全保障への強いこだわり
ジョンズ・ホプキンス大学SAISとCFRでの経験で身につけた国際的な視野は、長島昭久さんの政策立案の最大の強みです。
防衛大臣政務官・副大臣・首相補佐官という安全保障分野の一連の要職は、日本の安全保障政策において長島さんが欠かせない存在であることを示しています。
一貫した「国際政治をリードできる政治家」への志
高校3年生の1979年に抱いた「国際政治をリードできる政治家になりたい」という志は、その後の全ての選択の羅針盤となっています。
米国留学・SAIS・CFR・防衛副大臣・首相補佐官という全てのキャリアが、17歳の長島少年が抱いた夢に向かって一直線に進んできたものです。
まとめ:長島昭久の学歴と経歴|慶應23年・ジョンズホプキンスが育てた安全保障のプロ
- 長島昭久さんは1962年2月17日、神奈川県横浜市生まれの衆議院議員
- 父の意向で慶應義塾幼稚舎(小学校)に入学し「格差」を感じながらも慶應教育を受けた
- 慶應義塾幼稚舎→普通部→高校→大学→大学院まで23年間の一貫教育を経験
- 高校最後の年(1979年)に仲間と日本初のラクロス同好会を創設したチャレンジ精神の持ち主
- 大学では応援指導部に所属し、4年時にリーダー長として早慶戦を指揮しリーダーシップを磨いた
- 慶應義塾大学法学部法律学科卒業後に政治学科へ学士入学し、政治学を深く学んだ
- 慶應義塾大学大学院法学研究科で憲法学の修士号を取得
- 1990年に石原伸晃代議士の公設第一秘書に就任し政界デビュー
- 1993年、31歳で「裸一貫」の渡米を決意し妻の仕送りを受けながら留学
- ジョンズ・ホプキンス大学SAIS(高等国際問題研究大学院)で修士号を取得(1997年)
- 米国外交問題評議会(CFR)の研究員としてアジア安全保障を研究した国際派
- 2003年衆院選で初当選し以来9回連続当選のベテラン政治家
- 防衛大臣政務官・防衛副大臣・内閣総理大臣補佐官(外交安保担当)の安保要職を歴任
- 民主党から希望の党を経て自民党入りという複雑な政党遍歴を持つ
- 慶應義塾大学法学部講師・中央大学大学院客員教授として教育活動にも携わる

