米倉斉加年の学歴|出身は西南学院大学・福岡中央高校!バスケ主将から名優へ

米倉斉加年の学歴|出身は西南学院大学・福岡中央高校!バスケ主将から名優へ

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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米倉斉加年さんは俳優・演出家・絵本作家として多方面で活躍した昭和を代表する名優です。

米倉斉加年さんの学歴について、出身校やどんな学生時代を送っていたのか気になっている方も多いのではないでしょうか。

福岡県福岡市出身の米倉斉加年さんは福岡市立警固中学校から福岡県立福岡中央高等学校に進み、西南学院大学文学部英文科に入学するも中退して上京しています。

この記事では米倉斉加年さんの学歴を小学校時代から大学中退まで時系列で整理し、学生時代のエピソードや俳優人生の原点に迫ります。

記事のポイント

①:福岡中央高校でバスケ部主将を務めた

②:西南学院大学を中退し上京した経緯

③:絵本作家として国際的な賞を受賞

④:弟への想いが教科書掲載作品に

米倉斉加年の学歴と出身校の全貌

  • 米倉斉加年の学歴一覧と基本プロフィール
  • 福岡での幼少期と戦争体験
  • 警固中学校での弁論大会エピソード
  • 福岡中央高校でのバスケ部主将時代
  • 西南学院大学への進学と推薦辞退の理由
  • 大学中退から上京への決断

米倉斉加年の学歴一覧と基本プロフィール

 
 
 
 
 
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米倉斉加年さんの学歴と基本情報をまとめていきます。

まず、学歴一覧を表で整理してみましょう。

学校区分 学校名 偏差値 備考
出身小学校 非公表(福岡市内の国民学校) 戦時中の国民学校制度
出身中学校 福岡市立警固中学校 福岡市中央区赤坂
出身高校 福岡県立福岡中央高等学校 63 バスケットボール部主将
出身大学 西南学院大学文学部英文科 55〜60 中退

続いて、米倉斉加年さんの基本プロフィールを確認してみます。

項目 内容
本名 米倉正扶三(よねくら まさふみ)※1983年に「斉加年」へ改名
芸名 米倉斉加年(よねくら まさかね)
生年月日 1934年7月10日
没年月日 2014年8月26日(享年80歳)
出身地 福岡県福岡市(現・中央区)
血液型 A型
職業 俳優・演出家・絵本作家・画家
所属 劇団民藝→劇団海流座(主宰)

戸籍名「正扶三」から「斉加年」への改名

米倉斉加年さんの戸籍上の本名は「正扶三(まさふみ)」でした。

ところが小学校時代から周囲に「斉加年」と名乗り続けていたというエピソードがあります。

なぜ幼い頃から別名を使い始めたのか、その詳しい経緯は明かされていませんが、独自の美意識やこだわりが幼少期から芽生えていたことがうかがえますよね。

そして1983年、正式に戸籍上の名前も「斉加年」に改名しています。

約40年以上にわたって使い続けた名前を法的にも統一したかたちで、俳優として広く知られていた名前がようやく本名になったわけです。

多彩な才能を持つ人物像

米倉斉加年さんは俳優・演出家としての顔だけでなく、絵本作家や画家としても国際的に高い評価を受けた人物です。

ボローニャ国際児童図書展で2年連続グラフィック大賞を受賞するなど、その才能は多岐にわたります。

また、中学校の国語教科書に長年掲載された『おとなになれなかった弟たちに…』の著者としても広く知られています。

このように学歴だけでは語りきれない多彩な経歴を持つ米倉斉加年さんですが、その原点は福岡での学生時代にあります。

福岡での幼少期と戦争体験

米倉斉加年さんの幼少期について見ていきましょう。

1934年・福岡市に生まれる

米倉斉加年さんは1934年7月10日、福岡県福岡市(現在の中央区)に生まれました。

昭和9年の生まれで、まさに日本が戦争へと突き進んでいく激動の時代に幼少期を過ごしています。

当時の小学校は「国民学校」と呼ばれており、米倉斉加年さんも福岡市内の国民学校に通っていました。

具体的な小学校名は公表されていませんが、後に通った警固中学校の学区から推測すると、福岡市中央区周辺の国民学校だったと考えられます。

小学校時代から「斉加年」を名乗る

先述の通り、米倉斉加年さんは国民学校の頃から戸籍名の「正扶三」ではなく「斉加年」と名乗り始めています。

子供の頃から独自の名前を使い続けるというのは、かなり意志の強い性格だったことを示していますよね。

この強い個性は、後の俳優人生にも大きく影響していくことになります。

弟ヒロユキの誕生と戦時下の生活

米倉斉加年さんが国民学校4年生のとき、弟のヒロユキさんが生まれました。

しかし当時は戦争が激化しており、父親は戦地に赴いて不在の状態でした。

空襲を受けて毎晩防空壕で過ごすような生活の中、日本全国で食料が深刻に不足していた時代です。

弟のヒロユキさんは栄養失調により、終戦の約半月前に亡くなっています。

この痛ましい体験は米倉斉加年さんの人生に深い傷を残し、後に名作絵本『おとなになれなかった弟たちに…』として結実することになります。

10歳で経験した価値観の転換

米倉斉加年さんは後のインタビューで、「10歳のときにすべてが一夜でひっくり返って民主主義の世の中になった」と語っています。

それまで教えられてきた価値観が終戦とともに180度変わるという経験は、幼い米倉斉加年さんに「教科書」や「学校」を素直に信じられない感覚を植え付けました。

この原体験が、後に教科書掲載の依頼を受けた際の戸惑いにもつながっていきます。

戦争という過酷な時代を福岡で過ごした幼少期が、米倉斉加年さんの人間性と表現の根幹を形作ったといえるでしょう。

警固中学校での弁論大会エピソード

米倉斉加年さんの中学校時代を見ていきましょう。

福岡市立警固中学校の概要

米倉斉加年さんが進学したのは福岡市立警固中学校です。

警固中学校は福岡市中央区赤坂2丁目に位置する公立中学校で、福岡の中心部にある学校です。

戦後の新制中学校として設立された同校は、福岡中央市民センターや福岡市中央図書館に隣接する文教エリアにあります。

赤坂駅や大濠公園駅からも近く、天神エリアにも徒歩圏内という立地です。

「弟の死」で校内弁論大会1位

米倉斉加年さんは自分は小学校のときから文章を書くのが苦手だったと語っています。

当時は「綴り方」という教科があって作文を書く授業がありましたが、いつも2〜3行ほどしか書けなかったそうです。

ところが新制中学の校内弁論大会で、米倉斉加年さんは「弟の死」というタイトルの原稿を書き上げ、校内1位に輝いています。

ただし本人にとっては複雑な思い出だったようで、原稿の構成やエピソードは担任の先生にほとんど書き直されたものだったと後に明かしています。

「寝転がって、『ヒロユキ』と、弟の名前を青空に書いた」というエピソードが含まれていましたが、実際にはそんなことをしたことはなかったそうです。

博多弁の強いなまり

弁論大会とともに米倉斉加年さんが思い出すのが、自分の博多弁のなまりが非常に強かったということです。

「先生」が「しぇんしぇい」になるほどの強い博多弁で、後に俳優を目指すにあたっては「たいへんな欠陥」だったと笑いながら振り返っています。

後年、NHKの番組で母校の中学校を訪れて授業をした際に、生徒たちに「しぇんしぇい」と言うかと尋ねたところ、「僕らは言いません。先生の中で一人、しぇんしぇいと言う先生がおります」と返されたエピソードも語っています。

言葉は時代とともに変わっていくものだと実感した出来事だったようですね。

中学校時代が作品の原点に

弁論大会で書いた「弟の死」は、後の絵本『おとなになれなかった弟たちに…』の原型ともいえる作品です。

先生の手によって再構成されたとはいえ、弟を亡くした悲しみを言葉にしようとした最初の試みが中学校時代にあったことは重要です。

警固中学校での経験が、米倉斉加年さんの「書く」ことへの意識を芽生えさせた時期だったといえるでしょう。

福岡中央高校でのバスケ部主将時代

米倉斉加年さんの高校時代について詳しく見ていきましょう。

福岡県立福岡中央高等学校の概要

米倉斉加年さんが進学したのは福岡県立福岡中央高等学校(偏差値63)です。

同校は1898年に福岡市立福岡高等女学校として設置認可された歴史ある学校で、1949年に現在の校名に改称されています。

もともと女子校だった名残から、現在でも女子生徒の比率が高い学校として知られています。

米倉斉加年さんが入学した1950年頃は、ちょうど新制高校として共学化された直後の時期にあたります。

バスケットボール部で主将を務める

米倉斉加年さんは高校時代、バスケットボール部に所属し主将を務めていました。

運動能力にも優れていた米倉斉加年さんは、バスケットボールの実力が認められ、西南学院大学からスポーツ推薦の打診を受けるほどでした。

文章を書くのが苦手だった少年が、実はスポーツマンとしても才能を発揮していたというのは意外に感じる方も多いかもしれません。

この身体能力の高さは、後に舞台俳優として長年にわたり活躍する体力的な基盤にもなったと考えられます。

推薦を断り俳優の道へ

西南学院大学からバスケットボールでの推薦を受けた米倉斉加年さんですが、この推薦をあえて辞退しています。

当時はバスケットボールで生計を立てる道がほとんどなく、プロリーグも存在しない時代でした。

米倉斉加年さんはバスケットボールではなく、役者として生きる道を選択したのです。

高校生の時点で俳優を志していたということは、すでにこの頃から演劇への強い関心を持っていたことがわかりますね。

福岡中央高校の著名な卒業生

福岡中央高校は米倉斉加年さん以外にも、多くの著名人を輩出しています。

タレントの森口博子さん、小説家の大道珠貴さんなども同校の卒業生です。

また、旧制時代の福岡高等女学校には漫画家の長谷川町子さんも在籍していました。

文化・芸能分野で活躍する卒業生を多く送り出してきた伝統校であることがわかります。

西南学院大学への進学と推薦辞退の理由

米倉斉加年さんの大学時代について見ていきましょう。

一浪を経て西南学院大学に入学

バスケットボールの推薦を断った米倉斉加年さんは、一浪を経て西南学院大学文学部英文科に入学しました。

西南学院大学は福岡市早良区に本部を置く私立大学で、1916年に創設されたキリスト教系の名門校です。

米倉斉加年さんが在籍していた文学部英文科は、現在は外国語学部に再編されており、偏差値は55〜60程度とされています。

推薦を辞退してまで一般入試で挑んだことからも、単にバスケットボールの延長ではなく、自らの意志で学びの場を選んだことがうかがえます。

演劇部で演劇に没頭した日々

大学に入学した米倉斉加年さんは、演劇部に入部し演劇活動に没頭していきました。

文学部英文科で英語や文学を学ぶ傍ら、舞台に立つことへの情熱が日に日に強くなっていったようです。

大学の演劇部での経験が、プロの俳優を目指す決心を固めるきっかけとなりました。

講義よりも稽古や公演準備に時間を費やすようになり、次第に学業との両立が難しくなっていったと推測されます。

バスケ推薦辞退の真意

改めて振り返ると、米倉斉加年さんがバスケットボールの推薦を断った判断は非常に先見性のあるものでした。

当時の日本にはプロバスケットボールリーグは存在せず、バスケットボール選手として生涯を送ることは現実的ではありませんでした。

「バスケットボールで生きる道はない」と冷静に見極めた上で、役者として生きる道を選んだのです。

この決断力の高さは、後の俳優人生においてもモランボンCMへの出演など、周囲に流されない姿勢として一貫して発揮されることになります。

大学中退から上京への決断

米倉斉加年さんが大学を中退して東京へ向かった経緯を詳しく見ていきましょう。

1954年に西南学院大学を中退

演劇への情熱が抑えきれなくなった米倉斉加年さんは、1954年に西南学院大学文学部英文科を中退し、単身東京へ向かいました。

大学での学びを途中で投げ出すのは大きな決断だったはずですが、舞台の世界で本格的に生きていく覚悟を固めたのです。

20歳という若さでの上京は、家族や周囲にとっても心配な出来事だったことでしょう。

劇団五十人劇場に参加

上京後、米倉斉加年さんは俳優の松村達雄さんが創立した劇団五十人劇場に参加しています。

松村達雄さんは後に映画『男はつらいよ』シリーズなどで知られる名優で、当時はまだ劇団を立ち上げたばかりの時期でした。

しかし劇団五十人劇場は1年あまりで解散してしまい、東京での最初の挑戦は短期間で幕を閉じることになります。

福岡への帰郷と結婚

劇団の解散を受けて、米倉斉加年さんは一度福岡に戻り、この時期に結婚しています。

妻となったのはテルミさんという女性で、米倉斉加年さんの生涯の伴侶となりました。

一度は挫折を味わったものの、福岡で家庭を持つことで新たな出発の基盤を築いたともいえます。

再上京と劇団民藝への道

福岡での生活を経て、米倉斉加年さんは再び東京を目指しました。

1957年、劇団民藝の水品演劇研究所に3期生として入所しています。

ここで宇野重吉さんという偉大な師と出会い、本格的な俳優人生がスタートすることになります。

大学中退から劇団民藝入所まで約3年の紆余曲折がありましたが、この回り道があったからこそ、役者としての覚悟がより一層固まったのかもしれません。

西南学院大学を中退して上京するという選択は、結果的に昭和を代表する名優を生み出すことになったわけです。

米倉斉加年の学歴から見る俳優人生の原点

  • 劇団民藝入団と宇野重吉との出会い
  • 舞台俳優としての代表作と受賞歴
  • 絵本作家としての功績と教科書採用
  • モランボンCM出演と信念の行動
  • 弟への想いと名作絵本の誕生
  • 晩年の活動と80歳での死去

劇団民藝入団と宇野重吉との出会い

 
 
 
 
 
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米倉斉加年さんの俳優人生を決定づけた劇団民藝での日々を見ていきましょう。

水品演劇研究所への入所

1957年、米倉斉加年さんは劇団民藝の水品演劇研究所に3期生として入所しました。

劇団民藝は1950年に設立された日本を代表する新劇の劇団で、滝沢修さんや宇野重吉さんといった名優が在籍していました。

米倉斉加年さんはここで宇野重吉さんに師事し、演技の基礎から舞台人としての心構えまでを徹底的に学んでいきます。

宇野重吉さんの演出作品に数多く出演し、共演を重ねる中で俳優としての実力を磨いていきました。

劇団青年芸術劇場(青芸)の結成

1959年には岡村春彦さんや常田富士男さんらとともに劇団青年芸術劇場(通称・青芸)を結成しています。

常田富士男さんは後に『まんが日本昔ばなし』のナレーションで全国的に知られるようになる俳優です。

若手俳優たちが自分たちの表現を追求する場として立ち上げた劇団でしたが、米倉斉加年さんは1964年に劇団民藝に復帰しています。

劇団民藝での37年間

復帰後、米倉斉加年さんは2000年に退団するまでの約37年間にわたり劇団民藝の中心俳優として活躍しました。

看板俳優として数多くの作品に出演するだけでなく、演出家としても力を発揮しています。

劇団民藝での長い活動が、米倉斉加年さんを昭和を代表する舞台俳優へと成長させたのです。

学生時代にバスケットボールの推薦を蹴ってまで選んだ道が、ここで大きく花開いたといえるでしょう。

舞台俳優としての代表作と受賞歴

米倉斉加年さんの俳優としての実績を見ていきましょう。

『ゴドーを待ちながら』と紀伊國屋演劇賞

米倉斉加年さんの舞台俳優としての評価を決定的にしたのが、サミュエル・ベケット作『ゴドーを待ちながら』での演技です。

この作品での演技が高く評価され、1966年に第1回紀伊國屋演劇賞を受賞しました。

記念すべき第1回の受賞者に選ばれたことは、当時の演劇界における米倉斉加年さんの存在感の大きさを物語っています。

翌1967年には第11回新劇演技賞も受賞しており、演劇界での地位を確固たるものにしました。

森光子さんとの『放浪記』

舞台の代表作として欠かせないのが、森光子さん主演の舞台『放浪記』です。

米倉斉加年さんは森光子さん演じる林芙美子の友人・白坂五郎役を長年にわたり演じ続けました。

『放浪記』は森光子さんのライフワークとして2000回を超える上演を記録した伝説的な舞台で、米倉斉加年さんもその歴史の重要な一部を担っていたのです。

映画・テレビドラマでの活躍

舞台だけでなく映像作品でも幅広く活躍しています。

NHK大河ドラマでは『勝海舟』『風と雲と虹と』(興世王役)、『花神』(桂小五郎役)などに出演しました。

映画では森谷司郎監督の『動乱』や山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズにも出演しています。

晩年には『ALWAYS 三丁目の夕日’64』や山田洋次監督の『小さいおうち』にも出演し、最後まで映像作品に意欲的に取り組んでいました。

主な受賞歴一覧

下記の表は米倉斉加年さんの主な受賞歴をまとめたものです。

受賞名 受賞理由
1966年 第1回紀伊國屋演劇賞 『ゴドーを待ちながら』等の演技
1967年 第11回新劇演技賞 舞台での演技
1976年 ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞 『魔法おしえます』の絵
1977年 ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞 『多毛留』の絵
1981年 第4回日本アカデミー賞優秀助演男優賞 映画での演技
1988年 第23回紀伊國屋演劇賞 舞台での演技

俳優としてだけでなく、絵本作家としても国際的な賞を受賞している点が米倉斉加年さんの特徴ですよね。

絵本作家としての功績と教科書採用

米倉斉加年さんの絵本作家・画家としての一面を見ていきましょう。

ボローニャ国際児童図書展で2年連続大賞

米倉斉加年さんの画家としての実力を世界に示したのが、ボローニャ国際児童図書展での2年連続グラフィック大賞受賞です。

1976年に『魔法おしえます』で子供の部大賞、翌1977年に『多毛留(たける)』で青年の部大賞を受賞しています。

ボローニャ国際児童図書展はイタリアで毎年開催される世界最大規模の児童書の見本市で、そこでのグラフィック大賞は最も権威ある賞の一つです。

俳優としても活躍しながら、絵の分野で国際的な最高峰の賞を2年連続で受賞するというのは驚異的な才能といえるでしょう。

絵本作家を志した理由

米倉斉加年さんがなぜ絵本を描くようになったのかについて、本人はこう語っています。

「昔の童話は気持ち悪いものがたくさん出てきたり、ストーリーが残酷だったりするものが多かった。ところが最近の絵本はだんだん気持ち悪さや残酷さが薄れていっているように思える」と感じたことがきっかけだったそうです。

温室の外に出したらすぐ枯れてしまう草花のように子供たちを育てているのでは、という危機感から、自分の思う絵本を描きたいと考えるようになったのです。

最初の絵本『多毛留』の文章は、福岡から東京へ向かう飛行機の中ですべて書ききってしまったというエピソードも残っています。

『ドグラ・マグラ』の挿絵

絵本作家としての活動に加えて、米倉斉加年さんは画家としても多くの作品を手がけています。

特に注目すべきは、日本三大奇書の一つとされる夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』の挿絵を担当していることです。

福岡出身の夢野久作の作品に、同じく福岡出身の米倉斉加年さんが挿絵を寄せるという縁もまた興味深いですよね。

中学校教科書への採用

米倉斉加年さんの作品で最も広く知られているのが、1987年以来中学校1年生の国語教科書(光村図書出版)に掲載され続けている『おとなになれなかった弟たちに…』です。

30年以上にわたって教科書に掲載され続けた作品は数少なく、世代を超えて読み継がれてきました。

全国の中学生や海外の日本人学校の生徒からも手紙が届いたといい、米倉斉加年さんは万年筆で一通一通返事を書いていたそうです。

モランボンCM出演と信念の行動

米倉斉加年さんの人柄を最もよく表すエピソードの一つが、モランボンCMへの出演です。

1979年「ジャン」のCMに出演

1979年、米倉斉加年さんは食品メーカー・モランボンの焼肉のタレ「ジャン」のテレビCMに出演しました。

モランボンは在日朝鮮人が創業した企業で、当時「朝鮮」を正面に掲げた企業のCMに出演してくれる俳優を見つけることは極めて困難な時代でした。

テレビ局からCM放送を拒否されることも珍しくなく、出演する俳優にも大きなリスクがある状況だったのです。

出演後に受けた仕打ち

米倉斉加年さんがモランボンのCMに出演した結果、すべての役から降ろされ、メディアへの出演も断られるという仕打ちを受けたといわれています。

当時の芸能界における差別意識の根深さを物語るエピソードですが、米倉斉加年さんはそれでも自らの信念を曲げることはありませんでした。

人として正しいと思ったことを貫く姿勢は、学生時代にバスケットボールの推薦を蹴って俳優の道を選んだ時と同じ意志の強さがあります。

信念を貫いた俳優としての生き方

モランボンCMへの出演は、米倉斉加年さんの人間性を端的に示す出来事です。

仕事を失うリスクを承知の上で出演を引き受けたのは、差別に加担しないという強い信念があったからにほかなりません。

後の「世田谷・九条の会」の呼びかけ人を務めるなど、社会的な問題に対しても積極的に声を上げ続けた姿勢は、一貫したものでした。

俳優としての演技力だけでなく、一人の人間としての在り方もまた、米倉斉加年さんが多くの人に尊敬された理由の一つでしょう。

弟への想いと名作絵本の誕生

米倉斉加年さんの代表作『おとなになれなかった弟たちに…』の誕生背景を詳しく見ていきましょう。

絵本執筆のきっかけ

米倉斉加年さんは、あるとき宿屋に滞在して売り物の絵を描いていた際に、ふいに「やっぱりいかん」「昔の、小学校のころの絵を描かないと」という想いが湧いてきたと語っています。

「自分の『戦争』を記しておこう」という気持ちになり、「僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。」という書き出しが自然に出てきたのです。

そのとき米倉斉加年さんは「4年生」の自分に戻っていて、転校先で新しい友達に弟の話をするような感覚で書き進めたそうです。

「ミルクを盗み飲みした」告白

この絵本で米倉斉加年さんが最も書かなければならなかったのが、栄養失調の弟のために確保していたミルクを自分が盗み飲みしてしまったという告白でした。

「いちばん恥ずかしくて言えなかったことを書かなければいけなかった」と本人は語っています。

戦時中の飢餓状態で、幼い子供が空腹に耐えきれずミルクに手を出してしまったという体験は、米倉斉加年さんにとって生涯にわたるトラウマだったのでしょう。

その最も辛い記憶を正直に書いたからこそ、作品に深い真実味が宿ったのだと思います。

教科書掲載への戸惑い

光村図書出版から教科書掲載の依頼があったとき、米倉斉加年さんは戸惑いを感じたといいます。

その理由の一つは、自分が「負け組」であるという意識でした。

また、10歳のときにすべてが一夜でひっくり返った経験から、「教科書」や「学校」を信じきれない部分があったことも大きかったようです。

「1週間考えさせてください」と答えましたが、実は言った瞬間に心は決まっていたそうで、多くの子供たちに読まれるならこんなに嬉しいことはないと了承しました。

世代を超えて読み継がれる作品

1987年の初掲載から30年以上にわたり教科書に採用され続けたこの作品は、戦争を知らない世代にも戦争の悲惨さを伝え続けてきました。

米倉斉加年さん自身は「手に取る子供がいれば伝わっていく。伝わっていくというのは後の人が伝えるかどうかの問題であって、作った僕の問題じゃない」と述べています。

だれも手に取らなくても置いておかなければならない、という覚悟で生み出された作品が、結果的に何百万人もの中学生に読まれることになったのです。

晩年の活動と80歳での死去

米倉斉加年さんの晩年の活動と最期について見ていきましょう。

2007年・劇団海流座を設立

2000年に劇団民藝を退団した米倉斉加年さんは、2007年に自ら劇団「海流座」を主宰しました。

海流座では米倉斉加年さんが演出も手がけ、全国各地で公演を行っています。

70歳を超えてもなお新しい劇団を立ち上げるというエネルギーは、学生時代からの演劇への情熱が衰えていなかった証拠です。

劇団民藝での約43年間の経験を糧に、より自由な表現を追求する場を自ら作り出したのです。

最後まで続いた俳優活動

晩年も米倉斉加年さんは映画やテレビドラマへの出演を続けています。

NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』(2007年)や映画『ALWAYS 三丁目の夕日’64』、山田洋次監督の『小さいおうち』にも出演しました。

独特の存在感と重厚な演技で、晩年まで多くの監督から信頼される俳優であり続けました。

2014年8月26日・腹部大動脈瘤破裂で死去

2014年8月26日、米倉斉加年さんは腹部大動脈瘤破裂のため、故郷の福岡市内の病院で亡くなりました。

享年80歳でした。

葬儀は近親者のみで執り行われ、後日お別れの会が開催されています。

喪主を務めた妻のテルミさんは「まだ一度も泣けないの。半身が削ぎ落ちたような心持ちなんですよ」と語っており、長年連れ添った伴侶の深い悲しみが伝わってきます。

福岡から始まった80年の生涯

福岡で生まれ、戦争を経験し、バスケットボール少年から俳優の道へ。

大学を中退して上京し、劇団民藝で花開き、絵本作家としても国際的な評価を得た米倉斉加年さんの80年の生涯は、まさに波乱万丈の人生でした。

最期は故郷の福岡で迎えたというのも、何か運命的なものを感じさせます。

学歴こそ大学中退ですが、その後の人生で成し遂げたことは、学歴では測れない圧倒的なものでした。

米倉斉加年の学歴と功績の総括まとめ

  • 米倉斉加年1934年福岡県福岡市に生まれた俳優・演出家・絵本作家
  • 戸籍名は正扶三だが小学校時代から「斉加年」を名乗り1983年に正式改名
  • 出身中学校は福岡市立警固中学校で、校内弁論大会で1位になった経験を持つ
  • 出身高校は福岡県立福岡中央高等学校(偏差値63)でバスケットボール部主将を務めた
  • 西南学院大学からバスケ推薦を受けるも辞退し、一浪して文学部英文科に入学
  • 大学では演劇部に没頭し、1954年に中退して上京を決断
  • 1957年劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事
  • 第1回紀伊國屋演劇賞を受賞するなど舞台俳優として高い評価を得た
  • ボローニャ国際児童図書展2年連続グラフィック大賞を受賞した国際的な絵本作家
  • 代表作『おとなになれなかった弟たちに…』は1987年以来中学校の教科書に掲載
  • 1979年にモランボン「ジャン」のCMに出演し差別に屈しない信念を貫いた
  • NHK大河ドラマ『花神』の桂小五郎役や森光子主演『放浪記』など映像・舞台で幅広く活躍
  • 2007年に劇団海流座を主宰し70代でも精力的に公演を続けた
  • 2014年8月26日に腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去、享年80歳
  • 学歴は大学中退だが俳優・演出家・絵本作家・画家として学歴では測れない功績を残した